救う会全国協議会

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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

金賢姫氏と語ったこと、分かったこと?連続集会報告(2009/04/15)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2009.04.15)

飯塚繁雄さん、耕一郎さんが、3月11日、釜山で金賢姫氏と直接会って話した
ことで、田口八重子さんの実像がさらに明確になり、また拉致というテロに始ま
る北朝鮮工作員によるテロの構図が一層明確になりました。この面会が日本、韓
国、そして北朝鮮に与えた衝撃も大きなものとなりました。今回は、飯塚繁雄さ
ん、耕一郎さんに、金賢姫氏と語り合ったことついて語っていただきました。ま
た、西岡力会長代行が、今回の面会で新たに分かったこと、今後聞いてみたいこ
とについて解説しました。韓国の現状等に関する会場からの質問に、洪●・早稲
田大学客員研究員にもお答えしていただきました。家族会の増元照明事務局長、
横田早紀江さんにも語っていただきました。2回にわけて送ります。
(●=榮の木を火に、配布資料=下記)

■金賢姫氏と語ったこと、分かったこと?連続集会報告
会場では、飯塚さんたちが作成した面会内容に関する以下の資料が配布された。
まず、それを全文、掲げておきます。

『金賢姫元工作員との面会要旨』

本資料目的
2009/3/11(水)に行われた金賢姫元工作員との面談における対談内容を記載して
ものである。

開催日時
2009/3/11(水) 11:10 ? 12:30
韓国 釜山 BEXCO(釜山国際展示場)

詳細
1.田口八重子さんの北朝鮮での生活様子
目がとても似ている。すらりとして格好良かった。目鼻口の輪郭がはっきりし
て、西洋的な美人だった。最初拉致されてきた時に、乳がはっていてそれを絞っ
ていたと聞いたことがある。

朝食は食べずブラックコーヒーを飲んでいた。また、たばこも好きだった。

いつも息子に逢いたいと言っていた。

あの頃は「ケイ(恵)ちゃん」、「タマ(玉)ちゃん」と呼び合っていた。

自由はなかったが、ひどい労働をさせられることはなかった。北朝鮮では外国
人は待遇が一般人よりましな生活であり、仕事は主に教育だった。

あってすぐに彼女が腰痛になり、起きあがれないほどだった。915病院に連
れて行かれた。

市内の招待所で1週間日本のビデオを観たことがあって、その帰りに二人で
「自由主義」をして帰ったことがあった。

2.田口八重子さんの安否関連情報(一部、横田めぐみさん)

「コ・ヘオク」という名前は知っている。指導員や幹部がそう呼んでいたのを
聞いたことがある。「リ・ウネ」は仮名である。

83年、田口さんと分かれてから何ヵ月後に、指導員が「顔だけ見せてやる」と
いって、市内に行く途中、田口さんの顔だけ見たことがある。

85年1月、海外実習から帰ってきてスッキと合流した。そのときスッキは、84
年末に田口さんとめぐみさんとスッキの3人で市内から遠く離れた招待所で一緒
に生活したと言っていた。スッキによれば、そこは電気事情が悪く寒いので、服
を何枚も重ね着していたとのことである。いずれにせよ、その時点で結婚してい
たという事実はない。

85年4月、運転手が酔って、田口さんと大喧嘩をして、それで大問題になった
ことがある。そのときも結婚していなかった。

87年1月マカオから帰ってきて2月?10月にかけて招待所で生活していたが、
2月か3月頃、運転手から、田口さんがどこかに連れて行かれたが、どこか分か
らないと聞いた。86年に一人暮らしの被害者らを結婚させたと聞いたので、田口
さんもどこかに行って結婚したのだと思った。運転手が知らないということなの
で、招待所ではないところだと思った。この間、誰も死亡したと聞いたことはな
い。なお、結婚させられた被害者の中には中国人もいたということを聞いた。

87年2月か3月頃、めぐみさんが韓国の人と結婚して娘を産んだという話も聞
いた。

問いに対して、敵工部(or敵工地)については知らないが、とにかく田口さん
はどこかの招待所ではないところに行って結婚したのだと思った。

3.その他

もう少し積極的に活動したいと思っていたが、ここ数年、自分の事情が悪かっ
た。もう少し早く飯塚家に会いたかった。

私も今、母親となって田口さんの気持ちが分かるようになった。彼女を通じて
家族というものが大切であるということを感じた。私も家族が北にいるから母が
恋しいし、会いたい。

繁雄に対して(耕一郎を見ながら)、こんなに立派に育てて頂いて有難うござい
ますとのこと。

04年に会いたいとの手紙を送ったと伝え聞いたことがあるが、受け取ってい
ない。

今後、拉致問題解決に向け積極的に協力していきたい。また、日本だけではな
く、韓国人の拉致被害者もいる。韓国の現政権は、拉北者と国軍捕虜の問題への
取り組みを主な政策としている。これは良いことだと思う。

日本政府は、北朝鮮の自尊心を生かして、閉ざされた心を動かす方法を考える
べき。努力すれば奇跡は起きる。

田口さんは生きているので希望を持ってほしい。(耕一郎氏に対し)自分が韓
国のお母さんになる。次回は田口さんも交え4人で再会したい。

●報告
◆面会は拉致問題における歴史的な1ページ
飯塚繁雄 今回の面会については、以前から「会いたい」という希望を表明して
いました。そして、日韓外相会談で合意し、面会が実現しました。盧武鉉政権か
ら李明博政権に代わって、日本政府と同じ方向を向き始めたことから実現したと
思います。今回は、両国政府が相当の準備をし、計画から段取りまで多くの方々
のご尽力をいただきました。

金賢姫さんとの面会は、飯塚家、田口八重子の話が中心になってしまいました
が、金賢姫さんの方にも、以前から田口八重子さんのことについてお話してあげ
たいという気持ちもあったようです。

彼女が韓国に来て、例の大韓航空機事件についてはっきり証言し、また日本人
化教育のために日本から連れてこられた拉致被害者についても証言してくれまし
た。後にその日本人は田口八重子と特定されたわけですが、20か月を一緒に過ご
した田口八重子のことを、早く家族に知らせてあげたいとずっと思っていたよう
です。そして今回、面会が実現したことに感動していますし、皆様にも感謝して
います。

長い間彼女の面会を望んでいましたし、何回かの手紙も出したのですが、今回
ようやく会えたことは、ある意味で拉致問題における歴史的な1ページではなかっ
たかと思います。

まだ彼女はすべて自由の身ではなく、警備が相当大変だったようです。あの警
備のすごさ、報道関係者の多さにはびっくりしました。飛行機から降りて、外に
出る時だけでも、報道関係者が150人くらいいました。韓国の警察がしっかりと
仕切りをし、間をぬってバスに乗り込みました。バスに乗ってからも、いわゆる
パパラッチのような追っかけ記者がついてきて、バイクから写したり、ワゴン車
のサンルーフをあけて写真を撮るなどずっとつけまわしていました。ホテルに着
いた時も多数の報道関係者がいてその中をかきわけながら、やっと玄関にたどり
着きました。

金賢姫さんも韓国の特殊警察官のような人に囲まれて入ってきました。当初は、
面会は簡単にできると思っていたのですが、大変な計画と段取りがあって実現し
たことを感じました。

面会内容はお配りした資料の通りですが、初めから面会時間は1時間30分と限
定されていました。金屏風の前に3メートルくらいの円卓があり、正面に金賢姫
さんが座り、両脇に私と耕一郎が座りました。

最初の5分は、テレビカメラや写真のためのフォトセッションで、先に私たち
二人が入ったところに、金賢姫さんが入ってきました。私たちも初めて「実物」
を見たわけですが、感激しました。壇の上で、私の方から「会えてよかったです」
とお礼を申し上げ握手をしたところ、彼女は「先に私がご挨拶すべきなのに」と
恐縮されていました。そして、「これが例の息子の耕一郎です」と紹介したとこ
ろ、彼女は耕一郎の顔を見た途端に涙があふれてきて、「抱いてもいいですか」
といわれ、皆様もご承知のような抱き合った風景になりました。

私も、気が動転していたのですが、彼女の顔を側で見て、写真で見た顔と変わ
らないと思いました。47歳ですから若干細身になっているようでした。整形して
いると言われますが、そうではないように思いました。いわゆるきれいな人とい
う感じでした。

◆互いに恵(けい)ちゃん、玉(たま)ちゃんと呼んでいた

彼女は、八重子のことを話してあげたいという気持ちが高ぶっていて、面会室
では、最初の約45分彼女が話し続けたという感じでした。そして20か月間一緒に
生活した様子をこまごまと話していただきました。

大筋では、彼女が書いた「忘れられない女(ひと、文春文庫)」の通りでした
が、活字で読むのと違い、本人の肉声で聞けたことで感動しました。やさしい顔
付きで、若干微笑みながら逐一説明してくれました。資料にありますように、耕
一郎の顔をNHKのBS2で見た時、非常に八重子に似ている、特に目がよく似てい
ると言っていました。

八重子については、資料にもありますが、「目鼻口の輪郭がはっきりして、西
洋的な美人だった」とほめています。私はそんなに美人とは思いませんが、向こ
うから見たらそう見えたのかもしれません。また彼女が一番気にしていたことは、
「1歳と2歳の子を置いたまま拉致されたこと」で、1歳の子どもがいたのでま
だお乳が出ていたようです。それで、「乳がはっていてそれを絞っていた」とい
うことがあったようです。そして、八重子が「小さい子どもたちに会いたい」と
よく言っていたようです。母として当然の思いでしょう。

20か月の間は、お互いの境遇について「聞いてはならない、話してはならない」
と命令があったようですが、ずっと一緒にいるわけですから、話もあったようで
す。互いに恵(けい)ちゃん、玉(たま)ちゃんと呼んでいたということですが、
恵ちゃんは八重子の工作機関での名である李恩恵の「恵」でしょう。玉ちゃんは、
金賢姫さんの通称である玉花(オッカ)の「玉」でしょう。李恩恵は工作用の名
前で仮名です。

20か月の間の八重子は、「ひどい労働をさせられるようなことはなかった」よ
うです。北朝鮮は外国人は一般の人よりは待遇がいいようです。だから「飢え死
にするようなことはない」と言っていました。八重子は、一時ひどい腰痛があり、
915病院に通ったそうです。

招待所で日本のテレビのビデオを見たというのは教育の一環のようですが、そ
の帰りに、「二人で自由主義をしたことがあった」と言っています。自由主義と
は自由行動のことで、強く思い出すことがあったようです。

◆「絶対生きている」

また、面会中3、4回、「絶対生きている」と言っていました。安否情報につ
いては、八重子は朝鮮名「コ・ヘオク」ですが、その名前を知っていたそうです。
指導員や幹部がそう呼んでいたので、そういう名前なんだなと。

83年に、八重子と別れて何か月か後に、いつもついている指導員が「顔だけ見
せてやる」と言って、遠くから見せてくれたことがあったそうです。85年1月に、
金賢姫さんが海外実習から帰った後、淑姫(スッキ)という工作員と合流したと
のことです。この淑姫さんから、「84年末に、横田めぐみさんと八重子、淑姫の
3人で市内から遠くはなれた招待所で一緒に生活をした」と聞いたそうです。
「そこは電気事情が悪く、服を何枚も重ねて着ていた」そうです。またその当時
八重子が結婚していたことはないとはっきり言っていました。

85年に運転手と喧嘩をしたという話がありますが、その時も結婚していなかっ
たということです。87年1月にマカオから金賢姫さんが戻り、2月から10月まで招
待所にいた間の2月か3月頃、運転手から、「田口さんがどこにつれていかれたか
分からないと聞いた」ということです。運転手が他の運転手から聞いた話かもわ
かりません。また、「86年に一人暮らしの被害者を結婚させたと聞いていたので、
田口さんも結婚したのではないか」と思っていたようです。

運転手は招待所を廻っている筈で、どこの招待所か分かるわけです。そこに誰
がいるかも知っているでしょう。「運転手が知らないというので、招待所でない
ところに行ったと思った」と言っていました。また「この間、誰かが死亡したと
いう話は聞いたことがない」ということです。北朝鮮では、上からの情報より、
運転手や招待所のおばさん、医者や看護婦などからの情報が信憑性が高いそうで
す。その意味では、「誰かが亡くなったという情報はすぐに伝わる」という仕組
みになっているようです。もちろん上には分からないようにしているのでしょう。

金賢姫さんは、「結婚されられた被害者の中には中国人もいた」と聞いていま
す。資料にはないですが、ヨーロッパ人被害者の話が少し出ました。「工作員と
して教育したが失敗した。それで外国人を工作員にはしないことになった」そう
です。そして、「工作員を教育する方に廻すようになった」と。つまり、拉致被
害者は工作員にはならないと思われます。

87年2月か3月頃、「めぐみさんが韓国人と結婚して娘を産んだ」という話も聞
いています。横の情報網で聞いたのでしょう。私は、八重子の行った先が気にな
り、蓮池薫さんが言っていた「敵工地に行った」ということを聞いたのですが、
「敵工地」という言葉はないようです。

「拉致問題について積極的に活動したいと思っていた」そうです。しかし、ここ
数年、「自分の事情が悪かった」と。憶測ですが、盧武鉉政権の時は自由な行動
や発言ができなかったのでしょう。監視も厳しかったのだろうと思います。しか
し、「早く家族に会いたかった」と思っていたそうです。

彼女は結婚して子どもが二人おり、上の子が10歳くらいです。「自分も家庭を
もって母親となって初めて家族が重要な単位で、ここからすべてが始まる」と思
い、「工作活動をやっていた期間は無駄な人生になってしまった」と言っていま
した。「家庭を持ち家族を持って、これが本当の自分の姿だ」と言っていました。
「家族を持って、当時の田口さんの気持ちがさらによく分かった」と言っていま
した。

◆「母親が恋しい、なんとかして会いたい」

他方、彼女は家族が北朝鮮にいます。「どうなっているのか、どこにいるのか
も分からない」状況で、「母親が恋しい、なんとかして会いたい」と言っていま
した。

私に対し、耕一郎を、「こんなに立派に育てていただいてありがとうございま
す」と言っていました。私は、八重子が帰った時、きちんと成人になった耕一郎
を八重子に渡してあげたいと言いましたが、そうした思いが通じたようです。

私たちが何回か手紙を出したことについては、テレビなどで知ってはいたよう
ですが、一度も受け取っていないと言っていました。私が2004年初め頃に出した
手紙は、「彼女が受け取らなかった」という理由で返ってきました。管理する側
が押さえたのだろうと思います。彼女も、そんなに会いたいと思っていたのかと
分かったようでした。

「お母さんは必ず生きていますよ」と何回も言っていたのは、希望を持って、と
いう励ましの言葉だと思いますが、感動的だったことばは、「返ってくるまで自
分が韓国のお母さんになってあげます」でした。「次回は八重子さんも含めて四
人で再会したいですね」とも言っていました。

彼女は、日本の拉致問題への取組みも全部ニュースなどで知っています。「積
極的に協力していきたい」とはっきり言っていました。「日本人だけでなく韓国
人の被害者もいる」と。今の李明博政権は、拉北者(韓国語の拉致被害者)や戦
時中の国軍捕虜なども解決すると政策で打ち出しています。「これは自分にとっ
てもよいことだ」と言っていました。この言葉は、「積極的に協力していきたい」
という言葉につながるものだと思います。

解決にどのようにしたらいいかについて、こちらから聞いたのではなく、彼女
の方から、「北朝鮮の自尊心を活かして閉ざされた心を動かす方法を考えるべき
だ。そういう努力をすれば奇蹟は起こる」と言っていました。北朝鮮は自尊心を
傷つけられるのが嫌だということでしょう。私は、単に北朝鮮にちやほやして、
「お願いします」とか、「何かあげるから返してください」というのではなく、
自尊心をうまく利用して、きちんと対応する知恵をはたかせることかなと思いま
した。

私たちは、写真を見せたり説明したりしましたし、「妹よ(飯塚繁雄著、日本
テレビ)」の本や、耕一郎のことを書いた漫画「母が拉致された時僕はまだ1歳
だった(双葉文庫)」、政府のパンフ、特定失踪者のポスター、写真集「めぐみ
さんたちは生きている!(産経新聞社)」などをお渡ししました。また、私と耕
一郎の名刺を渡しています。全て持ち帰ってくれればいいが、と思っています。

「今度日本に是非来てください」と言ったのですが、「そうですね。ええ」と明
解な答えはありませんでした。しかし、これをきっかけになり、今後につないで
いかなければならないと強く思っています。警備状況を見ますと、簡単には会え
ないとも思いましたが、彼女は色々なことをまだ知っていると思います。

今回、韓国政府が勇気ある行動をとっていただき、面会が実現しました。なん
とか早く八重子を取り戻し、「4人で会おう」という話も実現したいと思います。


西岡 配布資料(飯塚耕一郎さんが作成した面会概要)は、1.田口八重子さん
の北朝鮮での生活様子、2.田口八重子さんの安否関連情報(一部、横田めぐみ
さん)、3.その他、に分かれていますが、1.は、「忘れられない人」にも書
かれていることです。

◆「李恩恵」と「高恵玉」

気になったのは2.の初めに、「コ・ヘオク」とあります。これは北朝鮮が発
表した資料にある田口さんの名前です。北の言っていることはみんな嘘だろうと
思っていたのですが、帰国した被害者も「コ・ヘオク」と呼ばれていたと言い、
金賢姫さんも田口さんは「コ・ヘオク」と呼ばれていたと話しています。漢字で
書くと、「高恵玉」で、金賢姫が田口さんを呼んでいた「恵ちゃん」は「李恩恵」
の「恵」からとったのでなく「高恵玉」の「恵」からかもしれない。李恩恵と高
恵玉という二つの名前の関係をもっと金賢姫さんに聞きたいです。つまり、北朝
鮮のペーパーに書いてあった「コ・ヘオク」という名前は嘘ではなかった。北朝
鮮の話しはすべてが嘘ではなく、細部は事実を利用しながら大きな嘘をついてい
る、嘘をつくにもなにか材料があるんだなと思いました。

北朝鮮は田口さんについて、「工作員が身分盗用に利用する対象として物色中、
1978年6月29日、宮崎県宮崎市青島海岸で本人(田口さん)と会って、『共和国
に3日程度なら観光がてら行きたい』と意向を示したことから、特殊工作員が身
分を偽装するのに利用するために連れてきた」と言っています。

「乳がはっていてそれを絞っていた」という母親が、「3日程度なら観光がてら
行きたい」と言ったというのが北朝鮮の公式の言い分です。耕一郎さんはお母さ
んのことを覚えていません。お母さんは耕一郎さんを捨てていったと北朝鮮は言っ
ているわけです。母親を奪っただけでなく、愛情までも踏みにじり、人格をも踏
みにじる嘘だと思います。

自分やお姉さんのことを、お母さんである田口さんが「愛していていつでも会
いたいと思っていた」ということ、これは金賢姫氏の著書には書いてありますが、
やはり耕一郎さんが金賢姫氏から直接、聞けたということは、今回の面会が大変
意義があったと思います。「母親像の空白を埋めたい」と耕一郎さんはずっと言っ
ていましたが、それが実現でき、北朝鮮の嘘はひどい嘘だということを耕一郎さ
んが直接確認できたことは大変よかったと思いますし、嘘のひどさには改めて怒
りを禁じえないというのが率直な気持ちです。

915病院は、工作機関のための病院で3号庁舎の管轄下にあります。北朝鮮の名
前の数字は日付から来ています。何年かの9月15日に何かがあって名づけられた
ものと思います。金正日政治軍事大学のやや南にあり、工作員や教官らが利用し
ます。蓮池さんや地村さんも利用したと言っています。横田めぐみさんに関する
最初の工作員(安明進さんではない人)の情報は、915病院で聞いたというもの
でした。

◆「84年の年末には」めぐみさんと八重子さんと金淑姫が一緒に招待所にいた

2.には新しい事実がたくさん入っています。

「83年に田口さんと分かれて何か月か後に、顔だけ見た」ということですが、田
口さんが金賢姫と分かれたのは、「忘れられない女」によると83年3月です。金
賢姫は84年6月まで別の招待所で、金淑姫と一緒に訓練を受けています。そして、
84年7月から最初の海外実習に行きます。とすると、顔を見たのは83年3月から84
年6月の間ということになります。

田口さんはその時、外貨ショップにいたのか、サーカス場で遠くから見たのか、
そういうことが分かりません。「いつ、どこで見たのか」も聞きたいところです。
それによって田口さんが当時どういう生活をしていたのか分かるのではないかと
思います。

「85年1月に海外実習から帰ってきた」とのことですが、淑姫という人物がここ
で出てきます。「月刊朝鮮」の趙甲済さんが、めぐみさんとの関係について金賢
姫から聞いたことを前々回の連続集会で報告しましたが、田口さんは金賢姫を教
えており、横田めぐみさんは金淑姫を教えていた。金賢姫と金淑姫は同じ時期に
党に召還された日本に化ける工作員だった。正確に言うと日本人と中国人に化け
る工作員だった。二人は日本人化教育と中国人化教育を受けています。月刊朝鮮
に発表された趙甲済さんの質問と金賢姫さんの答えでは、金淑姫がいつめぐみさ
んから教育を受けたのかは分からなかったのですが、ここでその時期が判明した。
「84年の年末には一緒にいた」ということと、「めぐみさんと淑姫が一緒にいた
だけでなく、田口さんも一緒にいた」ということが新しい事実です。

田口さんは金賢姫、めぐみさんは金淑姫と別々に日本人化教育を実施していた
のではないか、そうならば、めぐみさんが淑姫に教えた時期は、田口さんが金賢
姫に教えた1981年から83年ではないかと私はこれまで漠然と思っていたのですが、
そうではなく、84年7月に金賢姫が海外実習に出かけたあと、翼85年1月までの
間の期間にめぐみさんが淑姫に日本語を教えた。そして、驚いたことには、めぐ
みさんと淑姫は1対1で教育をしたのではなく、田口さんとめぐみさんが住んで
いた招待所で金淑姫を教えていたらしいということです。過去の情報と比べてみ
ると、一部NHK、読売、産経が報道したと記憶していますが、帰国した被害者は
『平壌の南にある中和郡(チュンハグン)忠龍里(チュンリョンリ)の招待所で、
めぐみさんと八重子さんと金淑姫が招待所にいるのを見た』と関係者に証言して
います。その証言と今回の金賢姫の証言はぴったり一致します。また、そうなる
と「電気事情が悪く寒いところ」というのは、中和郡忠龍里招待所だと思われます。

地村さん夫妻は、79年11月に忠龍里の招待所に入ります。蓮池さん夫妻は80年
9月に入ります。そしてめぐみさんと八重子さんと淑姫は、84年の年末か85年初
めにそこで3人でいるところを目撃されている。田口さんは81年7月から83年3月
まで金賢姫と一緒でした。では、田口さんは83年3月から84年末までどこにいた
のか。金賢姫の証言では、年末に一緒にいたということですが、3人がいつから
いつまで一緒だったのかは今回の話にはありません。淑姫は85年1月にめぐみさ
んや田口さんと別れ、金賢姫と合流していますので、それ以後は3人が一緒でな
かったことは確かです。蓮池さんたちは田口さんとめぐみさんがいつ忠龍里招待
所に来たのか、そして、淑姫がいつから合流したのか、を知っている筈ですので、
ぜひ詳しく話を聞いて忠龍里でどういうことがあったのかを整理したいです。

先ほど述べたように、我々は漠然と81年3月から83年3月まで、田口さんが金賢
姫と暮らしていた時期に、めぐみさんも金淑姫と二人で暮らしていたと思ってい
たのですが、そうではないようです。その点も詳しく金賢姫に聞いてみたいとこ
ろです。3人で暮らしていた時期がめぐみさんが淑姫に教えていた時期なのか、
それ以前にめぐみさんと淑姫が1対1で教育をしたことがあり、3人になったのは
再合流なのかもしれません。金賢姫さんの本では、81年7月から83年3月まで、田
口さんに日本人化教育を受けていた時期に、淑姫は金正日政治軍事大学で工作員
の訓練を行っていたとなっており、「だから私は嫉妬された」と書いてある。そ
れが正しければ、そのときはめぐみさんと淑姫は会っていないと考えていいのか。
くわしく聞きたいところです。


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葉書は、〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 麻生太郎殿

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