救う会全国協議会

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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

北朝鮮・拉致事件関連年表(2002/03/22)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2002.03.22)

■北朝鮮・拉致事件関連年表
(作成/藤岡広之 平成14年3月18日)

 この年表は大阪府の藤岡広之さんが作成したものです。ご参考までお送りし
ます。なお、大きな誤りはないと思いますが救う会はこの内容について保証す
るものではありません。引用等については各自の責任においてしていただきま
すようお願いします。

1907年 明治40年========
8月 日本によって、強制的に韓国軍は解散させられる、脱営した多くの兵が
抗日義軍に参加し各地で日本軍と戦った。そのとき「キム・イルソン」将軍が
活動した。日本人も証言。
1909年 明治42年========
*この年.金亨稷(キムヒョンジク)15歳、康盤石(カンバクソク)17歳と結婚。二
人はキリスト教(新教)信者だった。
1910年.明治43年========
8月 日韓併合、大韓帝国滅亡。
1911年.明治44年========
辛亥革命により清朝滅びる。
1912年.明治45年.大正元年====
この年中華民国が成立し、チベットが独立。
4月15日 康盤石(カンバクソク)長男を出産、名前は金聖柱(キムソンジュ)。後の
金日成(キムイルソン)。北朝鮮が公式に認めている本名は(ソンジュ)成柱(成も
聖もハングル表記は同じ)は1910年代以降「金日成将軍」と呼ばれ、満州とシベリ
ア一帯で活躍した闘士の名前を盗用し、それらしくするため、もとの名は金成柱
だったと偽装した。
1917年 大正6年========
金亨稷は金日成が満七歳のときに満州へと移住し、同胞を相手に医者となった。
1918年.大正7年========
*この年シベリア出兵、同地方は朝鮮独立運動の根拠地だったので、赤軍と朝鮮
独立軍と共同戦線をはって日本軍と戦った。
1919年.大正8年========
3月1日 朝鮮で三・一独立運動勃発。
1923年.大正12年========
7月29日 東亜日報に朝鮮の独立運動家のインタビュー記事、白馬を乗り回した
事などが書かれていた。彼は金日成などの別名を使っていた。彼の本名は金光瑞
(キムガンソ)近衛師団騎兵第一連隊の中尉だった。三・一独立運動の時、満州へ
わたり、独立軍を編成したが1925年夏から消息不明になった。
1925年.大正14年========
*この年中国とソ連がそれぞれ日本と協定を結び、自国領土内で抗日独立運動
を行なう朝鮮人を弾圧に乗り出した。
1926年.大正15年.昭和元年=======*この年金亨稷は金日成が十四歳の
ときに満州の地において三十二歳で客死している。
金亨稷が独立運動にある程度は参加したことは認められている。19年の三.一運
動が平壌周辺に波及したときの記録がある。その後に満州に移住してからも反
共的民族主義の独立運動団体との関わりがあったことも記録されている。
*この年朝鮮共産党満州総局が設立される。
1928年.昭和3年========
12月 モスクワで開かれたコミンテルンで討議された結果、派閥闘争に疲れ果て
、また知識人中心組織ゆえに効果的な闘争を展開できなかった朝鮮共産党はも
はや解体するしかない、いわゆる「12月テーゼ」が発表された。
1932年 昭和7年========
金日成の母康盤石が四十歳で死去する。
金日成の母方の家は単なるキリスト教徒ではなくきわめて篤実なキリスト教徒
であった。母方の祖父.康敦_(カンドンウク)は万景台一帯で信望の厚い教育者
で、長老会教会の長老として自宅内に昌徳(チャンドク)学校という私立の学校
を設け、キリスト教はもちろん、一般の科目についても熱心に教育を施した。康
敦_のまたいとこが康良_(カンヤンウク)で、彼は後年に北朝鮮でいくつかの要
職を歴任している。康敦_がどれほど深くキリスト教を信仰していたかは、自分
の娘、すなわち金日成の母の名を「盤石」と名付けたことからもうかがえる。イエ
スがペテロに「あなたは私の盤石だから、お前の上に教会を建てよう」と語った
ように、「盤石」はキリスト教で特別の意味をもつ言葉である。
1936年 昭和11年========
9月29日 京城日報に「金日成」の名をあげた最初の記事、匪首金日成一党120
人食料や物品を強奪・・・。
1937年 昭和12年========
ソ連は沿海州一帯の朝鮮民族を中央アジアのウズベキスタン.カザフスタンな
どの荒蕪の地に強制移住させた。理由は反ソ感情が日本への協力という事態へ
つながるのを恐れたためである。この強制移住の対象となった朝鮮人はおよそ
十八万人で、射殺されたり移住の途上で死亡した人々は二千五百人に上ったと
いう。
6月4日 普天堡(ボチョンボ)は咸鏡南道恵山鎮付近の白頭山に近い村である
。行政区域を記しておけば、咸鏡北道甲山郡普天面普田里となる。 金日成は二百
人ほどの兵力を指揮してこの村を奇襲し、日本の警察支署などを破壊、放火した
。翌日、 反撃する日本警察を撃退して崔賢率いる兵力と合流し、再び日本軍を撃
破、十人余を殺した
11月13日金日成は満軍歩兵第7団第1営の包囲攻撃を受け、部下8人と共に射
殺された。
年齢は35,6歳、本名は金成柱、モスクワ大学に通っていた。
1940年 昭和15年========
2月 関東軍は東北抗日連軍の総司令官.楊靖宇(ヤンジンウ)を一週間追撃し、
ついに射殺した。このとき三十五歳だった。関東軍は楊靖宇の死体の腹を割いて
みた。彼の胃の中には樹皮や草しか入っておらず、穀物の類はまったくなかった
という。東北抗日連軍の遊撃隊員がどれほどの苦難を耐え忍んだかを手にとっ
てみせつけられるようなエピソードである。さすがに関東軍も楊靖宇の勇敢さ
には敬意を表した。僧侶に念仏を唱えさせ、日当たりのよい場所に墓標を立てて
、後に立派な墓石も設置した。(北朝鮮の官製歴史書には楊靖宇の名さえみあた
らない。)
1941年 昭和16年========
12月 太平洋戦争開戦に先だち日本人と朝鮮人の活動家が大量に予備検束され
るが、韓徳銖(ハンドクス)はその中に入っていない。日本の官憲はかれを安全な
人物とみていた。かれは創氏名(植民地下の朝鮮人に強要された日本名のこと)
を西原健一といった。創氏改名を拒否して断固としてたたかった朝鮮人もいる
なかで、かれはかなり従順な人物だったようだ。
1942年.昭和17年========
2月16日 金正日、ソ連極東部ハバロフスク近郷で誕生。
1945年.昭和20年========
8月9日 朝鮮半島にソ連占領軍が侵入。
8月15日 日本が連合国に降伏し、第二次世界大戦終結。
8月17日 民族運動を指導していた非共産主義系指導者である_晩植(チョマンシ
ク62歳)は平安南道建国準備委員会の発足を宣言した。
9月 元山湾に一隻のソ連艦艇から「八十八特別旅団」の朝鮮人パルチザン金日成
らが上陸する。この日、金日成とともに元山港に下り立った兪成哲(ユソンチョ
ル)が興味深い回想を残している。「金日成は私たちにこう頼んだ。もし『金日成
将軍も来られましたか』と聞かれたら『その方は後ほど来られます。われわれ
は先発隊です』と答えてほしいと。また金日成はもし『金日成将軍はおいくつ
になられますか』と聞かれたら『お目にかかったことがないので、よくわかり
ません』と答えてほしいと」。
9月 金日成は、ソ連軍大尉の階級章をつけ、ソ連軍が彼に与えた「平壌市衛戍司
令部副司令官」の任命書を携えて平壌へ向かった。彼は平壌に駐屯する第二十五
軍軍事委員レベジェフ少将に紹介された。金日成の副官.文日(ムンイル)がロシ
ア語通訳を行った。レベジェフの回想によれば、金日成はレベジェフに「司令官、
私たちもソ連第二十五軍とともに日本との戦争に参戦したことにしてください
。」と懇願したという。レベジェフは彼の申し入れを一言のもとに拒絶したとい
う。
9月30日 平壌市の高級料亭「花房」で、メクレル中佐は金日成を_晩植に引き合わ
せた。先着して部屋の隅に座を占めていた_晩植に対し、金日成は部屋の入り口
から「先生、金日成です」と挨拶した。(自らを金日成と初めて名乗る)まずメク
レルが_晩植にソ連占領軍への協力を依頼すると、_晩植は統一国家樹立のため
に、ソ連のほうこそが朝鮮に力を貸していただきたいと何度も述べた。金日成は
盛んに酒を飲み、喋りまくった。_晩植は「自分は長老会(キリスト教の一宗派)
の者であるから」と、まったく杯を手にしなかった。
10月14日 平壌市公設運動場でソ連軍と金日成を歓迎する大衆集会を開いた。ソ
連軍少佐の肩章をつけ、胸にはソ連軍勲章をつけた三十三歳の白面の青年が、民
族の英雄金日成将軍として、初めて民衆の前に登場したのである。
11月3日朝鮮民主党結成の日は、1929年の光州学生運動の精神を継承すると意思
を込めて、十一月三日と_晩植(チョマンシク)は決意した。三大綱領として、民族
の独立と南北の統一、民主主義の確立を掲げた。朝鮮民主党が結成されると北朝
鮮民衆は熱狂的に呼応した。党員数は朝鮮民主党自身の集計では五十五万人に、
金日成が述べるところでは三十万人に達する勢いだった。
12月28日 朝鮮民族の運命に多大の影響を与えることになる一通の文書が採択
された。モスクワに米.英.ソ三国外相が集まり、「朝鮮問題に関する決定」(モス
クワ協定)が発表されたのである。ことに信託統治条項は反発を生んだ。朝鮮民
主党委員長._晩植が「モスクワ協定」反対の急先鋒に立った。
1946年.昭和21年========
1月5日 平安南道人民政治委員会の会議室でソ連占領軍司令部の幹部全員と平
安南道人民政治委員会委員との間の最後の交渉が行われた。_晩植は高麗ホテル
に閉じこめられた。外部との連絡を完全に遮断され、軟禁状態となった。その後
の曹晩植は軟禁状態さえ許されず、平壌刑務所に収監された。
1月6日 _晩植(チョマンシク)を軟禁。空席となった党委員長のポストには、康良
_(カンヤンウク)牧師を一時的に座らせた。彼は金日成の母方の遠い親戚で、温
厚なだけが取り柄という人物だった。

2月8日 北朝鮮臨時人民委員会(翌47年に北朝鮮人民委員会に改称)が発足、委員
長に金日成が就任
3月 金日成に対する手榴弾テロ未遂事件が平壌駅前集会で起こった。ソ連占領
軍司令部の幹部と北朝鮮臨時人民委員会幹部がすべて顔をそろえたこの集会の
最中に、演壇に向かって手榴弾が投げつけられた。集会警備にあたっていたノビ
チェンコ少尉がその手榴弾を拾い上げ、投げ返そうとしたとたんに爆発した。会
場で手榴弾を投げつけたのは、北に渡ってきた金亨集(キムヒョンジブ)という
十八歳の少年だったのである。彼は大韓民国臨時政府幹部.申翼煕(シンイツキ)
が組織した白衣社という秘密結社の行動隊員だった。申翼煕は45年12月末に中
国からソウルに帰還すると、臨政幹部の支援を受けて白衣社という反共右派秘
密結社を結成した。この白衣社の行動隊員三人が金日成を暗殺の標的として平
壌に潜入し、決行したのである。金亨集は後に逮捕され、さんざんに拷問を受け
てからシベリア流刑となったが、のちにその地で処刑されたという。金日成暗殺
に失敗した白衣社の行動隊員たちは、満州派(パルチザン派)の中心人物である
崔庸健と金策の自宅にも爆弾を投げつけたが、成功しなかった。しかし、朝鮮民
主党委員長だった康良_牧師の自宅に投げた爆弾はその場で爆発し、牧師の息子
と娘の命を奪った。
7月20日ごろ スターリンが金日成をモスクワに呼び、金日成を最高指導者と決
定する。
*この年、北朝鮮臨時人民委員会の要員を養成する目的で、三ヶ月課程の中央政
治幹部学校を、警察要員の要請目的で北朝鮮保安幹部学校を、党要員養成目的の
中央学校などが設立された。これらの学校では金日成こそ民族解放の英雄であ
り、李承晩と金九はニセの独立運動家であり、朝鮮半島は金日成によって統一さ
れねばならないという思想教育に比重をおいた。これらの学校で金日成の偶像
化教育のための教材を検討してみると、興味ある事実が浮かび上がってくる。「
噂によれば金日成将軍は五十歳を過ぎたとか、中国の蒋介石と友人だとかの話
があるが、それらはすべて虚偽で、われわれの委員長金日成将軍が真の金日成将
軍である」という件がそれである。北朝鮮民衆どころか行政府と党で働く要員さ
え、金日成の正体について疑いを持っていたことはここからもうかがえる。
1947年.昭和22年========
11月14日 国連総会で「国連監視下で南北朝鮮の総選挙の実施」を可決。ソ連拒否

*この年 金正日の弟シューラが自宅庭の池で溺死した。
1948年.昭和23年========
2月 人民解放軍を「朝鮮人民軍」と改称、朝鮮人民軍が正式発足
9月9日 朝鮮民主主義人民共和国が建国
(大韓民国はこれより前の8月15日に建国)、金日成首相就任
初代ソ連大使スチコフ上将の役割については、レベジェフ政治司令官の次のよ
うな回想がすべてを語っているように思われる。「新しい朝鮮を建設するために
朝鮮の友人たちに直接的な援助をしたソ連人、党と国家の活動で個人
的に豊かな経験を朝鮮の同志に伝えてくれたソ連人を挙げるとしたら、私は誰
よりもまずスチコフ上将を数えよう。彼が朝鮮にいても、第一方面軍司令部にい
ても、またモスクワにいても、ともかく彼の関与なしには当時の北朝鮮ではいか
なる措置もとれなかった。」ヘルシンキにフィンランド共産党創設者でコミンテ
ルンの執行委員会書記のクーシネンを首班とする傀儡政権.フィンランド民主
共和国政府を樹立させた。この過程でスチコフ上将が深く関わった。この経験は
北朝鮮に親ソ衛星国を成立させるのに役立ったはずである。
1949年.昭和24年========
6月 北朝鮮 祖国統一民主主義戦線が結成された。この祖国戦線の結成大会で中
央役員(約百人)のポストに闘争経歴も指導力の面でも格段に見劣りする韓徳銖
(ハンドクス)がただ一人日本から抜擢された。日本共産党の役職についている
在日朝鮮人幹部はすべて排除された。
6月30日 南北の労働党が合同し朝鮮労働党発足、委員長に金日成が就任
8月29日 ソ連が原爆実験に成功
9月 日本朝鮮人連盟とその青年組織はマッカーサーによって解散させられた。
9月22日 金正日の実母.金正淑が死去
10月1日 中華人民共和国が建国
1950年.昭和25年========
6月 日本共産党はマッカーサーの命令によって全中央委員24人が公職追放され
た。平和革命の可能性をめぐり党内は分裂し、徳田球一書記長は、のち中国にわ
たり"北京機関"を作り、そこから日本の活動を指導した。
6月25日 朝鮮人民軍が北緯38度線を突破、南侵を開始(朝鮮戦争が始まる)
9月 国連軍が反撃開始、北朝鮮劣勢に。
10月初旬 国連軍が平壌に迫り、北朝鮮軍が鴨緑江まで後退を余儀なくされる直
前に、_晩植は収監されていた民族派の人々とともに銃殺された。
10月25日 中国の義勇軍が公式参戦(この結果、劣勢になっていた北朝鮮軍が
38度線まで押し返す)
1951年.昭和26年========
1月9日 在日朝鮮統一民主戦線(略称民戦)が非公然のうちに結成された。これよ
り4年間朝鮮総連に改組されるまで、左翼側在日朝鮮人のすべての運動をになう
、民戦を指導したのが日本共産党民族対策部。
1953年.昭和28年========
2月 北朝鮮は在日朝鮮人のことを「朝鮮民主主義人民共和国の公民である」と主
張し始める。
3月5日 スターリン死去
7月27日 板門店で休戦協定調印(朝鮮戦争終結)
8月 朝鮮労働党中央委員会総会で、朴憲永を中心とする「南朝鮮労働党派」が大
量粛清される。
11月 民戦は日本共産党のかかげる「三反闘争」、反米、反吉田(当時の首相)反再
軍備に反李承晩(イスンマン)を加えて「反四闘争」を大会で決定した。
1954年.昭和29年========
2月 日本共産党中央は朝鮮南半部の独裁体制とたたかうことは「民族的偏向」と
しりぞけ、民戦中央委員会で「三反闘争」にもどさせた。この決定が在日朝鮮人の
民族感情を大きく傷つけた。当時韓徳銖(ハンドクス)は「日本革命に従属するの
でなく、祖国に直結しよう」と呼びかけていた。朝鮮戦争のころ日本共産党の極
左冒険主義によって在日朝鮮人運動は大きな打撃をうけていた。火炎ビンを投
げて暴れ、若い優秀な活動家がつぎつぎに日本の官憲に逮捕、投獄された。一家
の大黒柱が投獄された家族の状態は惨憺たるものであった。
8月30日 北朝鮮の南日(ナムイル)外相より平壌放送にて「朝鮮民主主義人民共
和国政府は日本政府にたいして、日本に居住する朝鮮人の朝鮮民主主義人民共
和国公民としての正当な権利を認めるよう要求する。」と一段と格上げした形で
政府声明がうちだされた。これによって在日朝鮮人運動の路線転換がはじまる。
10月 中国紅十字会(中国の赤十字社)の李徳全(リートーチワン)女史を団長と
する一行が来日した。在日中国人へ中国共産党の方針を伝える形をとりながら、
在日朝鮮人向けに「在日朝鮮人の共産主義者が日本共産党に籍をおき、日本革命
推進のために活動するなどとは内政干渉の最たるものである。」とのべた。
当時日本共産党主流派の多くは中国に亡命中だった。
11月3日 党中央委員会で「農業共同化」計画が決定
1955年.昭和30年========
3月 日本共産党は、在日同胞は日本革命とその目的がちがってくるから、党籍を
離脱する。在日同胞は日本の革命闘争に直接参加する必要もない、又してはなら
ないと決定する。在日朝鮮人党員はこの決定にそって一人残らず日本共産党か
ら離脱した。
5月24日 民戦(在日朝鮮統一民主戦線)第六回大会で解散、翌25日、在日朝鮮人総
連合会(総連)結成、韓徳銖(ハンドクス)は5人の議長団の一人におさまる。
1956年.昭和31年========
2月25日 ソ連のフルシチョフが「スターリン批判」演説
4月 朴恩哲(パクウンチョル)はピョンヤンに召喚される。60年代の末に「反党
反革命の謀議で在日関係者二十数人と伴に逮捕連行され、全員が行方不明にな
った。朴(パク)は元日本共産党民族対策部の責任者だった。
8月 スターリン批判とともに台頭した反金日成派の幹部を大量粛清(金日成が
ほぼ全実権を掌握)
1958年.昭和33年========
8月 韓徳銖(ハンドクス)は自分の出身母体である朝鮮総連神奈川県川崎支部中
留分会の一会員に、金日成あての手紙を書かせた。「日本での貧困と差別の生活
をうちきって発展する社会主義祖国に帰ってしあわせな生活をおくりたい。」と
いう内容だった。
9月8日 北朝鮮建国十周年記念大会で、金日成は「共和国政府は在日同胞が祖国
に帰り新しい生活をいとなめるようすべての条件を保障するでしょう」という
声明を発表した。
このころ韓国政府は在日朝鮮人を葉民視していた。「地上の楽園」の虚偽宣伝が
総連、一部日本のマスコミによって行なわれる。そして自民党から共産党までの
最高幹部を包括する「在日朝鮮人帰国協力会」が結成された。
1959年.昭和34年========
2月 岸信介総理のもとで「人徳主義の立場から帰還を許可する」という閣議了承
がなされた。
3月8日 千里馬作業班運動の開始。

8月 日本と北朝鮮の赤十字社の間で「在日朝鮮人帰還協定」が結ばれた。乗船ま
での費用を日本政府が負担し、帰国船の配船と帰国後の生活を北朝鮮政府が保
障するというものであった。
9月30日 毛沢東.フルシチョフ会談決裂(中ソ対立へ)
12月14日 新潟から第一次帰国船が出港した。

北朝鮮帰還者数

帰還者数
累計
1959
2,942
2,942
1960
49,036
51,978
1961
22,801
74,779
1962
3,497
78,276
1963
2,567
80,843
1964
1,822
82,665
1965
2,255
84,920
1966
1,860
86,780
1967
1,831
88,611
1971
1,318
89,929
1972
1,003
90,932
1973
704
91,636
1974
479
92,115
1975
379
92,494
1976
256
92,750
1977
180
92,930
1978
150
93,080
1979
126
93,206
1980
40
93,246
1981
38
93,284
1982
26
93,310
1983
0
93,310
1984
30
93,340
1985
0
93,340
1986
0
93,340
1987
1
93,341
1988
2
93,343
1989
3
93,346
1990
0
93,346

1961年.昭和36年=======
5月16日 韓国で軍事クーデター(朴正煕政権誕生)
1963年.昭和38年========
5月11日 石川県で寺越武志と叔父2人が船で漁に出て行方不明になる。翌朝そ
の漁船は無人のままで漂流しているところを発見される。(清津港に着く)
1966年.昭和41年========
10月 金昌満福首相ら「中国派」幹部が失脚(この頃から朝中関係が対立)
1967年.昭和42年========
5月 「甲山派」幹部を粛清
1968年.昭和43年========
1月21日 北朝鮮武装ゲリラ隊31名、ソウル青瓦台襲撃を試み失敗(青瓦台襲撃事
件)
11月4日 武装ゲリラ約120名を韓国東海岸に投入するが、掃討され失敗(この結
果、軍幹部が粛清)
1969年.昭和44年========
 中ソ国境で武力衝突
12月 大韓航空機を北朝鮮工作員が平壌にハイジャク。乗員乗客51名中12名が未
帰還
1970年.昭和45年========
3月31日 朝7時30分羽田発福岡行日航機「よど号」富士山上空でハイジャックさ
れる。13時59分、福岡から飛び立つが韓国、金浦空港へ偽装着陸させられ、長い膠
着状態に入る。2日の午前3時20分北朝鮮受け入れの意思表示。3日乗客ら103人解
放。身代わりの人質として山村新冶郎運輸政務次官がただ一人乗り込む。午後7
時20分、北朝鮮の旧日本軍飛行場跡地へ着陸。よど号ハイジャック赤軍メンバー
、( )内は当時の年齢、妻たちは他の資料からの推定。
リーダー 下記は後の妻たち
田宮高麿 (27) 森順子 (17)
サブリーダー    (よりこ)
小西隆裕 (25) 福井タカ子(25)
岡本武 (24) 福留貴美子(17)
赤木志郎 (22) 金子恵美子(15)
若林盛亮 (23) 黒田佐喜子(16)
安部公博 (22) 魚本民子 (18)
田中義三 (21) 水谷協子 (14)
吉田金太郎(20)
柴田泰弘 (16) 八尾恵 (14)
下記は人質であった方々
機長、石田真二(47) 山本新治郎(36)
4月 中国の周恩来首相訪朝、「朝中共同声明」で日本を「軍国主義」と非難、朝中関
係は修復へ
1971年 昭和46年========
2月26日 奥平剛士(おくだいらつよし/当時26歳/京大)はパレスチナへ旅立った。
その2日後の28日、重信房子(当時25歳/明治大/2月2日、同志の奥平剛士と結婚入
籍したためパスポートは奥平房子となっている)があとを追った。レバノンの
ベイルートに着いた2人は、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の庇護と支援を
得て海外赤軍派をつくった。
1972年.昭和47年========
2月 あさま山荘事件、連合赤軍の同士の粛清と虐殺が明らかになる。
2月 アメリカのニクソン大統領が中国を訪問した。
5月1日 北朝鮮でよど号ハイジャック犯人たち8人(未成年の柴田を除く)日本人
記者団と会見。「チュチェ思想の賛美を語る」。
5月6日 金日成、よど号グループの宿舎で彼らと謁見。
5月30日 テルアビブ空港襲撃事件、赤軍グループ3人のコマンド、2人は自爆、岡
本公三は捕虜となる。彼は岡本武の実の弟。
12月27日 社会主義憲法施行により、金日成が公式に国家の全権を掌握する国家
主席(元首)に就任
1973年.昭和48年========
金正日が朝鮮労働党の対南工作担当部署の三号庁舎を自分の指導下に置こうと
して、大検閲事業を始めた。それ以前になされた対南工作活動を全部点検し、工
作活動、工作員教育の中身はゼロであり、これからは私が直接それを掌握してや
るんだと発言した。
2月 金正日が責任者となって「三大革命小組」発動
6月 辛光洙(シンガンス)石川県穴水町より、日本に潜入、この地区の北朝鮮工作船支
援の容疑で公安の監視対象者の孫が、オウムの林泰男。母親が北朝鮮出身。
6月23日 金日成、朴政権に対し「高麗連邦共和国」を提案。
8月8日 東京で金大中氏拉致事件、金大中氏が日本を出国するまでの数日間、監
禁されていた神戸市の高級マンションの一階上にはグリコの江崎勝久一家が住
んでいた。
9月 党中央委総会で「三大革命」の遂行を決議。このとき金正日を金日成の後継
者として容認
1974年.昭和49年========
6月19日 在日韓国人の民族差別による解雇無効、日立就職差別裁判闘争は勝利
判決―原告側主張ほぼ全面的に認める。日立控訴せず確定判決となる。
8月15日 ソウルで文世光(ムンセガン)事件北朝鮮に抱き込まれた在日韓国人が
朴大統領を狙ったが夫人が射殺された。拳銃は大阪の交番で盗まれたもの。国会
で木村外務大臣は「北朝鮮の脅威はない」と答弁し、日韓関係悪化、韓国の日本大
使館に大がかりなデモ。
9月13日 日本赤軍によるハーグ事件
西川純・奥平純三・和光晴生の3人が、オランダ・ハーグのフランス大使館を占
拠し、フランス当局に拘禁中の日本赤軍メンバーの釈放を要求した。犯人グルー
プは、釈放されたメンバー及びオランダに提供させた現金30万米ドルとともに
飛行機でダマスカスに向かい、シリア当局に投降した。
11月 北朝鮮による、非武装地帯のトンネル事件。
1975年.昭和50年========
4月 サイゴン陥落、ベトナム戦争終了。
8月4日 日本赤軍によるクアラルンプール事件 奥平純三・F・和光晴生ら5人
がマレーシア・クアラルンプールの米国大使館等を占拠し、米国領事らの人質
と交換に、ストックホルム事件により我が国で在監・勾留中の日本赤軍メンバ
ー、西川純・戸平和夫等の釈放を要求した。犯人グループは、同人らのほか、「共
産同赤軍派」の松田久、「連合赤軍」の坂東國男、「東アジア反日武装戦線」の佐々
木規夫の五人を釈放させ、日航機でマレイシアに移送させた後、同機でトリポリ
空港に向かい、リビア当局に投降した。
10月19日 福井タカ子(29)よど号事件以前より小西隆裕とは恋人関係、日本出
国後、ギリシャ、イタリア、ベオグラード、モスクワ、を経て、11月頃よど号グルー
プの宿舎へ入る。
1970年台後半  ========
北朝鮮による日本人拉致が始まる
1976年.昭和51年========
6月13日 黒田佐喜子が日本から出国する。彼女はチュチェ研の幹部活動家。
7月中旬 福留貴美子(よど号犯岡本武の妻)が羽田から出国した。「モンゴル一
人旅をしたい」と友人に語っていた。
8月 福留家に国内から暑中見舞い届くが、住所等記載無し。
8月 板門店ポプラ事件起きる。米軍兵士二人が北朝鮮の兵士に殺される。その後
北朝鮮軍の戦力の集中が確認される。事件の三日後ぐらいに、米軍のB-52爆
撃機一機が北朝鮮に向かって強力な電波妨害を開始、北朝鮮の迎撃戦闘機も防
空レーダーも機能がマヒした。B-52は数分後、反転し帰還。事件後7日目、金日
成が米軍に対して「遺憾の意」を表明してきた。
10月7日 魚本民子が羽田よりメキシコへ出国し、北欧、モスクワ、を経てピョン
ヤンへ入る。彼女は新左翼党派の活動家である。
10月15日?22日 デンマーク、ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、の各国
は免税品転売、麻薬密売にかかわった、北朝鮮外交官の国外退去処分を決定する
。この事件以来、ヨーロッパ各国の北朝鮮大使館員と工作エージェントは各国当
局と情報機関の厳しい監視下に置かれた。11月11日 訪朝中の小田実が8人の「よ
ど号」メンバーに会う。帰国後、20日に朝鮮総聯(そうれん)本部で記者会見、その
後毎日新聞のインタビューを受け、欠席していたのは田宮、面会場所が薄暗くて
写真撮影は無理だった。吉田金太郎の写真、記事は無かった。
1977年.昭和52年========
1月25日 金子恵美子が羽田より出国する。彼女はチュチェ研の幹部。
2月24日 八尾恵(よど号犯柴田泰弘の妻)が伊丹から香港へ出国する。彼女はチ
ュチェ研の会に参加した事があっただけだった。
3月29日 水谷協子が羽田から香港へ出国する。彼女は朝鮮文化研究会のメンバ
ー。
3月30日 森順子が羽田から香港へ出国する。彼女の父親は在日朝鮮人。
5月初めまでによど号メンバー全員結婚、この結婚の仲人役は金正日である。
7月 フランス在住ピアニスト、白建宇一家拉致未遂
8月 韓国全羅南道紅島から高校生、李_校(イーメンギョ)崔承民(チェスンミン)
失踪
*1997年11月に逮捕された夫婦スパイ事件の崔工作員の供述で平壌市龍城区域
の「以南化環境館」で韓国事情や言葉使いの教官をしていることがわかった。(
97年12月10日産経新聞)
9月28日 日本赤軍によるダッカ事件
D・西川純・坂東國男・佐々木規夫ら五人が、インドのボンベイ上空で日航機
をハイジャックし、バングラデシュのダッカ空港に着陸させ、乗員乗客151人の
人質と交換に、我が国で在監、勾留中の日本赤軍メンバー等の釈放を要求した。
犯人グループは、奥平純三・城崎勉・大道寺あや子・浴田由紀子・E・仁平映
の六人と現金600万米ドルをダッカに移送させた後、アルジェリアに逃亡し、同
国当局に投降した。
9月19日 石川県で久米裕さん拉致される。(久米裕失踪事件=「宇出津事件」)
11月15日 新潟県で横田めぐみさん拉致される (横田めぐみ失踪事件) 。父親が
日銀の行員であり、営利誘拐の可能性から、新潟県警始まって以来のヘリコプタ
ーを使う大捜査になったが、全く手掛かりは無かった。
1978年.昭和53年========
1月 韓国人女優、崔銀姫(チェウニ)、香港で拉致
6月 田中実(29)、成田からウィーンに向かって消息を絶つ(神戸東灘区のラーメ
ン屋店員で、店主の韓某に誘われる)。
6月 東京都で田口八重子(のちの金賢姫教育係、李恩恵)失踪
7月7日福井県小浜市で地村保志さん(23)と浜本富貴恵さん(23)がアベックで拉
致される。彼らは一週間前に結納を済ませ、11月には結婚する予定で、式場の予
約まで入れていた。近くの山の上にある小浜公園から、保志の運転していた軽四
輪トラックが見つかった。トラックは、展望台に駐車したままになっていた。7月
31日新潟県柏崎市で蓮池薫さん(20)と奥土祐木子さん(22)がアベックで拉致さ
れる。中央大学法学部三年の蓮池薫は、夏休みで帰省中だった。夕方、「夕食は家
で食べる」と祖母に言い残し、Tシャツと半ズボンに草履をつっかけて自転車で
家を出ている。一方、カネボウの美容指導員奥土祐木子は、勤めていた薬局の奥
さんに笑顔を見せて、「蓮池さんと六時に図書館で会って、お茶を飲んで八時ま
でに帰ります」と外出した。
7月 韓国の監督、申相玉(シンサンオク)、香港で拉致
7月 ベイルートの「YWCA秘書学院」に、「日立の」秘書を募集するために、二人
の日本人を名乗る男性がやってきた。
7月 栗栖統幕議長が奇襲対処において超法規発言をした。金丸信防衛庁長官は
、同議長を解任した。当時の内閣は福田内閣だった。
8月 北朝鮮によるレバノン女性4人拉致事件。
8月12日 鹿児島県吹上浜で市川修一さん(23)と増元るみ子さん(24)がアベック
で拉致される。電電公社勤務の修一は恋人のるみ子を車に乗せてでかけ、そのま
ま二人とも帰ってこなかった。車内にあったカメラのフィルムには、その日のデ
ート中にお互いを撮り合った、楽しそうな二人の写真がおさめられている。他に
残されたものは、近くの砂浜にころがっていた修一のサンダルだけである。
8月15日 富山県でアベック拉致未遂事件。
8月 韓国西海岸(群山沖)から高校生、金英男(キムヨンナム)、韓国木浦沖から高
校生、李明雨(イーションウ)と洪建杓(ホンコンピョ)が失踪する。
11月27日 八尾恵が長女黎(れい)を出産。
●この年北朝鮮の金正日が指示し、韓国の女優崔銀姫(チェウニ)さんと監督の申相
玉(シンサンオク)さんが、香港にて拉致された。
4月 レバノンで女性二人がユーゴスラビアから「日本で元気に暮らしているか
ら心配しないでほしい」とレバノンの家族に電話する。

1979年.昭和54年========
6月 レバノン地元紙日本の有名企業(日立)が秘書に募集した四人の女性が旅立
った後、消息が途絶えた」と報道。
8月 東ベルリンより福留貴美子の手紙が実家に届く。なぜか4月に結婚した従兄
の事が書かれていた。
8月 レバノン女性二人、ユーゴスラビアのホテルメトロポールにチェックイン
後、監視の隙を突いてクエート大使館に逃げ込み、拉致事件はレバノン政府の知
るところとなった。(後に大韓航空機爆破の爆弾の受渡しを行ったのがこのホテ
ル)
11月 レバノン政府の強い抗議のすえ、北朝鮮は残る二人をレバノンに返してい
る。
レバノン女性の一人シハームは妊娠四ヶ月だった。彼女は北朝鮮に住むアメリ
カ人から、「『この状態』を解決するため結婚しよう」と言われ、結婚したという
。実は拉致被害者たちのうち、彼女は唯一のイスラム教徒だったが、シハームは
北朝鮮に帰ってしまった。
(その後レバノンは1981年2月に北朝鮮と国交樹立)
この年、京都の吉田の実家に小西隆裕の母から一本の電話がかかった。小西の実
家では、このとき小西隆裕本人からの手紙を受け取っている。ピョンヤンからの
ものだった。しかし、吉田の実家に金太郎からの手紙はなかった。吉田金太郎の
実家ではその後もピョンヤンにいる彼に対して、何度か手紙を書いている。翌
1980年の訪朝団にも家族から「よど号」グループの吉田金太郎宛ての手紙が託さ
れた。しかし返信はなかった。
@この年から「よど号」グループがヨーロッパに本格的に展開しはじめる。
1980年.昭和55年========
1月7日 産経新聞一面トップ記事「アベック三組ナゾの蒸発昭和53年夏福井、新
潟、鹿児島、富山の未遂、外国を発信源とするスパイ連絡用の怪電波が急激に増
えたという事実が警察によって確認されている。」と報道。
1月20日 魚本民子(よど号犯の妻)日本へ一時帰国。
3月 福留貴美子、東京、横浜の友人を回る。6月には出国した事になっている。
5月 韓国光州反政府暴動。
5月 スペインで北海道出身のIさん、熊本出身のMさんが消息途絶える。
6月 デンマークで韓国人教授らに対する拉致未遂事件
6月 宮崎で原敕晁さんが辛光洙(シンガンス)らにより拉致される、辛は原さんに成
り済ます。原敕晁失踪事件(宮崎青島海岸)
6月 パリにて田中義三との接線に失敗した水谷協子自殺未遂。
6月3日 八尾恵が次女燦(あき)を出産。
8月 水谷協子日本に帰国、9月に出国、コペンハーグ迂回後、ピョンヤン入り。
10月 ピョンヤンにて、日本社会党訪朝団に岡本武が突然訪ねる。
1981年 昭和56年========
1月28日 朝鮮民主党が朝鮮社会民主党と改称。
6月 森順子、黒田佐喜子(よど号犯の妻)日本入国
7月 北朝鮮で金賢姫(キムヒョンヒ)は李恩恵(リウネ)と一対一の同居生活を送
った。83年3月まで続き、金賢姫はカップラーメンを初めて見た。
10月11日 金日成、PLО議長アラファト訪朝に際し朝鮮英雄称号授与。
1982年.昭和57年========
1月 岡本武(よど号犯)からの年賀状(これが最後になる)
2月 警察庁の資料によると、八尾恵が海外旅行中の1982年2月、デンマークのコ
ペンハーゲンで、当時ユーゴスラビアのザグレブにあった北朝鮮領事館副領事
のキム・ユーチョルと接触していた「事実」や、不審な複数の日本人女性との接
触、東欧、東ベルリンなどへの出入国記録などが含まれていた。逮捕令状はアパ
ートの名義に偽名がもちいられていることで「有印私文書偽造同行使」の容疑が
あてられた。1988年5月25日の早朝、「佐藤恵子」すなわち八尾恵は、神奈川県警外
事課に逮捕された。
3月 デンマークにて、情報機関によって岡本武、森順子、撮影される。(このころ
魚本、森、黒田、金子、福井、日本入国を繰り返していく。)
4月 有本恵子は神戸市立外国語大学英米科二部を卒業すると一年半の予定でロ
ンドンへ語学留学をした。ホームステイ先で二人の子供のオーペア(子守)をし
ながら、午後はインターナショナル・ハウスで英語を学んでいた。
4月15日 金日成誕生70周年の祝賀行事で辛光洙(シンガンス)はトップクラスの勲章
である「国旗勲章一級」を授与されている。
■このころ、横田めぐみちゃんが帰ってきたが精神的な均衡を崩しており、ある
病院に入院している。という噂が新潟で流れる。
1983年.昭和58年========
6月 金正日が中国を非公式訪問(中国共産党幹部を前に演説。このときの発言に
ついて帰国後、金日成から叱責される)
7月16日 コペンハーゲンで有本恵子が失踪、コペンハーゲン空港で北朝鮮工
作員キムコーチョルと有本恵子さんが撮影される。二人はその後モスクワヘ飛
び立つ。
8月 『官報』(昭和63年8月6日付け)に掲載された外務大臣宇野宗佑(当時)名の
告示、金子恵美子、福井タカ子、森順子、水谷協子、魚本民子、の五人の名前をあげ
、「北朝鮮工作員と認められる人物と接触する等の海外における行動にかんがみ
・・・・著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行動を行う虞がある
と認めるに足りる相当の理由がある者」として旅券返納命令が出された。
10月9日 アウンサン廟爆破事件(ラングーン事件)、韓国閣僚ら21人爆殺、全斗煥
大統領は難を逃れる。(11月ビルマ、北朝鮮と断交)
10月 有本恵子さん本人の筆跡で、デンマークの季節感が不自然な内容の郵便が
神戸の実家に届く、それより音信が途絶える。
11月 第18富士山丸に潜入した北朝鮮の兵士が日本に上陸し、亡命を求める。
11月 北朝鮮が第18富士山丸の船員をスパイ容疑で抑留。
1984年 昭和59年========
5月8日 金日成、PLО議長アラファトと咸興で会談。
1985年.昭和60年========
3月1日「西新井事件」=北朝鮮のスパイ朴某を指名手配。80年6月には小住健蔵名
義のパスポートを使用していた。小住健蔵は1961年から行方不明になっている。
朴が東京都内のアパートを契約したときの保証人は,宮本明という在日韓国人
であった。宮本は蜂谷真一という男性に接近し、外国旅行に誘ってパスポートを
取らせている。蜂谷名義のパスポートはその後、あの大韓航空機爆破事件で登場
することになる。事件直後にバーレーンで服毒自殺した、北朝鮮工作員、金勝一
が使ったパスポートが蜂谷真一名義であり、その娘、蜂谷真由美と名乗って一緒
に行動したのが金賢姫だった。
3月 よど号ハイジャックグループ柴田泰弘がIさん名義のパスポートを取得。
4月 辛光洙(シンガンス)、韓国で逮捕
6月28日 韓国安企部は北朝鮮の工作員辛光洙(シンガンス)ら四人の逮捕を発表。(原
敕晁さん拉致事件明るみになる。)
8月 京都市祇園の吉田金太郎の実家では、ピョンヤンからの金太郎の異変を知
らせる一通の手紙を受け取っていた。差出人は田宮高麿だった。9月中旬になっ
て、田宮高麿から死亡の知らせの手紙が届く。
8月21日 北朝鮮で朴春仙(パクチュンソン)さんの、兄朴安複(パクアンボク)さんは銃殺刑
に処せられた。(朴春仙さんは辛光洙(シンガンス)と日本で同居していた)
12月 西独留学中の呉吉男(オキルナム)一家4人が北朝鮮へ(対南工作用のラジオのア
ナウンサーをさせられ、86年11月に吉男がコペンハーゲンで脱出)
1986年.昭和61年========
この年、北朝鮮が核開発を本格的に始動。この頃から、中国国境に近い北朝鮮の
北部辺境地域で餓死が始まる。
3月 北朝鮮に拉致された、韓国の女優崔銀姫
(チェウニ)さんと監督申相玉(シンサンオク)さんがウィーンで脱出。
5月14日 日本赤軍によるジャカルタ事件
インドネシア・ジャカルタにおいて、日本、米国両大使館に爆発物が打ち込まれ
、また、カナダ大使館前で車が爆破されるという同時テロ事件が発生した。この
事件では、「反帝国主義国際旅団」名の犯行声明が出されているが、日米捜査当局
は、城崎勉を犯人の一人と断定し、国際手配した。
1987年.昭和62年========
寺越武志と叔父の外雄から「北朝鮮にいる」と手紙。友枝さんが北朝鮮へ
1月22日 寺越外雄から姉の栗原豊子宛に北朝鮮で生きていることを知らせる手
紙が届いた。「突然、北朝鮮で生活することになった。こちらで家族も持ち、幸福
に暮らしている」昭二はすでになくなり、武志と外雄は結婚して子供もでき、平
壌北方の亀城(クソン)市に住んでいた。地元選出で日本社会党の島崎譲代議士(
当時)が北朝鮮とのパイプ役となり、その年九月三日に武志の両親は平壌を訪問
、親子は二十四年ぶりの再会を果たした。
6月9日 日本赤軍によるローマ事件。ベネチア・サミット開催中の6月9日、イタ
リアのローマにおいて、米国、英国両大使館に向け爆発物が発射されるなどのテ
ロ事件が発生した。この事件では、「反帝国主義国際旅団」名の犯行声明が出され
ているが、イタリア当局は、奥平純三らを犯人と断定し、国際手配した。
11月 ビルマ沖で大韓航空機爆破事件、金賢姫自殺未遂後逮捕。(日本語教育係の
李恩恵が子供を日本に残している事等自供。)
1988年.昭和63年========
1月22日 神奈川県警外事課のデスクに一本の密告電話があった。(八尾恵につ
いて)
2月 参議員秘書兵本達吉氏新潟、福井、鹿児島と失踪カップルの調査をする。3月
26日 橋本参議員(共)連続アベック失踪、李恩恵レバノンまで拉致疑惑を全面的
に取り上げる。梶山静六国家公安委員長(当時)「北朝鮮の疑いが濃厚」と答弁。
4月14日 日本赤軍によるナポリ事件
イタリア・ナポリにおいて、米軍クラブ前に駐車中の車が爆破され、米軍人1人
を含む5人が死亡するテロ事件が発生した。この事件では、「聖戦旅団機構」名の
犯行声明が出されているが、イタリア当局は奥平純三及び奥平(重信)房子を犯
人と断定し、国際手配した。また、米国当局も、この事件に関し、奥平純三を国際
手配した。
5月6日 柴田康弘(よど号犯)日本国内に潜入中逮捕。
5月25日八尾恵は、神奈川県警に逮捕された。
9月 Iさんの手紙がポーランドから札幌の実家に届く、今は北朝鮮にいる事、M
さんの存在、有本恵子さんの住所が書かれていた、何故か赤ん坊の写真も同封さ
れていた。
9月?10月 ソウルオリンピック成功。
10月10日 北朝鮮、朝鮮労働党創立記念日に金正日軍事大学で安明進(アンミンジョン)
は、横田めぐみさんを見るその後1991年まで数回遇う。
1989年.昭和64年.平成元年===
7月 第十三回世界青年学生祝典(平壌)。
11月 ベルリンの壁撤去。
1990年.平成2年========  
1月 訪朝中の高沢浩司に対しよど号グループは、岡本武は朝鮮人と結婚したと
うそを吐く。
5月10日 PLО議長アラファト、訪朝。
5月 大韓機を爆破した金賢姫に日本語などを教えた「李恩恵」こと田口八重子さ
んの日本からの拉致に関係ある総聯の大物商工人「安商宅」を警察が家宅捜査し
ようとしたら前日、捜査打ち切りとなる。圧力をかけたのは金丸信だ。
9月 金丸信、田辺誠訪朝、金日成と三者会談。
1991年.平成3年========
この年、ソ連崩壊、日本経済バブル崩壊
1月 「80年代、欧州で男女三人行方不明、北朝鮮.平壌で生活と家族に手紙届く」
この事件が新聞.週刊誌に掲載された。
1月15日 有本さん達に、( 外務省への請願と記者会見は16日)、前夜遅くNHK(
山本記者)より電話。『会って欲しい』と言う人がいるとのこと。翌朝早く神戸
より田村記者、東京より崎元記者(NHK)、遠藤氏。それに二家族を交え外務省近く
で会合。遠藤氏(R書房社長)は「私たちは金丸氏の訪朝のため、1年有半いろいろ
と努力をしてきました。今ここでこのような(拉致問題)警察よりこんな話が出
て来ては何もかもぶっこわしになってしまう。記者会見では住所姓名を言わな
いようにしていただきたい。そのかわり私達には『金日成』に通じるルートが
あります。1?2ヶ月待って下されば必ずよい返事を持って来ます。」と言う。金
丸氏の外交手腕を知っている有本さんはそれを信じ、一旦同意。記者会見は遠藤
氏の意にそった結果で終了。記者の中から、「圧力がかかっているのではないか。
」との声あり。・・・・じつはこれがズボシだった。数ヶ月が経過、遠藤氏の約束
は反故になる。
1月17日 多国籍軍がイラクへ空爆。
3月11?12日 日本との国交正常化交渉はじまる(東京)
5月 警視庁は「李恩恵について日本人と断定し拉致の可能性がある」と発表。同
庁では、捜査員をソウルに派遣し、金賢姫にT.Yを含む十五人の写真を見せた。七
枚目に出された写真に賢姫は迷うことなく「間違いなく李恩恵先生です」とはっ
きり答えた。金賢姫がすでに供述していた「李恩恵」の本籍、出生地、誕生日、家族
関係、身体特徴、血液型、性格、仕草.癖、趣味、言葉遣い、趣味嗜好、母親の出身地
が新潟県の佐渡島であることなど六十を超える項目についてT.Yのものと一致
した。たとえば、『仕草.癖』の項目で、人を送るとき、「大きく手を振る」『言葉
遣い』では、「やっぱし」「ばかみたい」を多用する。『職業』では「学生時代、食堂
でアルバイトした」などといった具合である。
5月15日 埼玉県警の佐藤正夫警備部長は、記者会見をして、匿名での報道を条件
に李恩恵は日本人女性T.Yと判明したとその実名を発表した。さらに、「李恩恵が
船で日本から引っ張られたと金賢姫に言っていることから、拉致の可能性も含
め、刑事事件として捜査を行う」と述べた。

9月 韓国.北朝鮮、同時に国連加盟。
12月 ソビエト連邦消滅。
1992年.平成4年========
1月 北朝鮮、核査察協定に調印する。
4月 よど号グループより柴田の妻で有る事を公表する事と八尾恵に手紙が届く

4月 よど号ハイジャックグループに妻子がいると金日成が朝日新聞記者団に語
る。
4月12日 北朝鮮の金日成主席生誕八〇周年の慶祝行事に参加する自民党訪朝団
の団長に指名されていた山村新冶郎衆議院議員は早めに床につくが次女に刺殺
される。今回の訪朝で「よど号」事件のリーダーだった田宮高麿と会う予定があ
ることを記者に明かしていた。面会が実現すれば、あの事件から22年ぶりの再会
になるはずだった。山村代議士が「よど号」事件のあと「男・山村新冶郎」として
ピョンヤンから帰還したとき、羽田空港のタラップの下で彼を迎えた幼い娘が
この次女だった。心神喪失で不起訴(4年後自殺。)
4月25日 軍創設記念日であるこの日、金正日が「英雄的朝鮮人民軍将兵諸君に栄
光あれ」と演説(金正日の肉声がメディアに流れたのはこれが初)
1993年.平成5年========
2月 金丸信、起訴される。
3月 金正日の長男金正男、ナイトクラブで女性をめぐるトラブルで拳銃を発射
する騒ぎを起こす。
3月北朝鮮、核不拡散条約を脱退。
5月 ノドン1号発射(能登半島沖に着水)
5月 神戸市の有本家に、兵庫県警外事課の刑事が一枚の写真を持って現れた。
この写真は北朝鮮の工作員キム・ユーチョルと有本恵子が一緒に写っていた。
6月 金丸信宅から出てきた金の延べ棒は北朝鮮からのバックマージンとの話。
尚、その金塊は無刻印だった。
9月 安明進、北朝鮮から韓国へ亡命。
11月頃 高沢氏はピョンヤンの郊外で「よど号」の「妻」たち全員に」インタビュー
をすることになった。このとき、インタビューに応じてくれたのは、行方不明の
二人を除く「妻」たちの全員、それに合流組の赤木美智子の七人だった。岡本武に
ついては何人かの女性たちが口にした。否定的であれ、取り繕った言い方であれ
、岡本は彼女たちの中に「存在」していた。しかし、吉田金太郎の名前は彼女たち
の誰からも出なかった。
1994年.平成6年========
2月?6月 北朝鮮、核査察受入れ後これを停止し、国際原子力機関、対北朝鮮制裁
決議
6月 北朝鮮の核査察拒否で高まった緊張の中、米国カーター元大統領が平壌を
訪問、金日成と会談、核開発凍結で合意
7月 柴田泰弘(よど号犯)刑務所から出所。
7月6日 金日成が、国内5地域に経済特区を設け、韓国資本を導入、経済再生を図
る政策大転換を提唱(いわゆる「七六演説」
7月8日 金日成死去
10月 ジュネーブで「米朝合意」が成立
11月 福留貴美子の高知の実家に4千万円用意すれば帰国させると大阪弁なまり
の電話が一回だけかかる。
11月4日 同日付「労働新聞」の金正日著名論文「社会主義は科学である」が「七六
演説」を完全否定
1995年.平成7年========
3月 渡部美智雄を団長とする与党訪朝団が平壌訪問
3月22日 捜査当局がオウム教団施設を捜索した際、麻原個人の金庫から、約七億
円の現金とともに十キロの金塊(時価約一千万円)が発見された。この金塊には
刻印がなく、再鑑定の結果、93年の脱税事件で金丸事務所から発見された無刻印
の金塊とほぼ同一の規格、品質であり、同じ高炉で精錬されたものと分かった。
4月23日 オウム真理教村井刺殺事件で、村井を刺殺した徐が犯行直前まで住ん
でいた家の所有者である女性の姉とかつて同居していた相手は、実は北朝鮮の
大物スパイ、辛光洙(シンガンス)であった。
8月 北朝鮮で大水害発生
10月 日本から50万トンの米を北朝鮮に送る。
11月 石高健次氏、安明進から市川修一さんの目撃証言を引き出す。石高健次が
出した十四枚の写真の中から、市川修一のものを指さして「この男性は平壌で何
回も見ました。間違いありません」とはっきり語ったのである。
11月29日、田宮高麿が「元赤軍派議長」塩見孝也を平壌駅まで見送る。
11月30日 「よど号」犯人グループのリーダーであった田宮高麿が死亡した。
その後は、小西隆裕がリーダーとして組織の運営に当たる。
1996年.平成8年========
3月 よど号ハイジャック犯田中義三、カンボジアで逮捕、偽ドル疑惑として報道
される。
3月 週刊文春によるとよど号の妻が日本人留学生を平壌に連行した記事が掲載
される。そして、魚本民子がヨーロッパに日本人男性を誘い行方不明になって
いる事も書かれていた。
8月7日 岡本武の「妻」が失踪していた日本人女性であり、福留貴美子さんである
というニュースは、『朝日新聞』の朝刊で報じられた。8月9日 各紙の紙面に「岡
本夫妻、北朝鮮で死亡か?」というものだった。記事はこんな内容だった。《元赤
軍派メンバーで消息が途絶えていた岡本武容疑者と同容疑者の日本人の妻が約
八年前の1988年ごろ、同国内の作業場で死亡していた可能性が強いことが九日、
関係者の話で分かった。
9月18日 韓国東岸の沖合で北朝鮮の潜水艦が座礁、上陸した武装ゲリラと韓国
軍が交戦
10月1日 高世仁氏、安明進に初取材「よど号ハイジャックグループ田
  
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