救う会全国協議会

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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

曽我ミヨシさんを救出するぞ!東京連続集会1(2012/10/30)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2012.10.30)

■曽我ミヨシさんを救出するぞ!東京連続集会1

 以下は、平成24年10月23日、曽我ひとみさんをお招きし、「曽我ミヨシ
さんを救出するぞ!東京連続集会の全文です。曽我さんが、拉致された時の模様、
北朝鮮での状況など、質問に対し、詳細な体験を語りました。初めて聞くことが
多い内容でした。4日に分けて送ります。概要以下の通り。


司会(平田隆太郎・事務局長)今日は、曽我ひとみさんのお母さん、曽我ミヨシ
さんを救うぞ!東京連続集会という形で実施します。惠谷治さん(ジャーなりス
ト)と西岡力会長が、曽我さんに色々な質問をしながら、話を進めていきます。

◆根拠がない北朝鮮による曽我さん親子拉致資料

西岡 拉致問題で一番有名な名前は「横田めぐみ」さんだと思います。そして田
口八重子さん、有本恵子さん、増元るみ子さんという名前は有名ですし、また曽
我ひとみさんという名前もこの10年間で有名になったと思います。しかし、私
たちが覚えなくちゃならない名前は曽我ミヨシです。

 曽我ミヨシさんは、まだ帰ってきていない認定被害者です。しかし、「死亡」
と言われているのではなく、「未入境」、北朝鮮に入ってないと北朝鮮が言って
います。

 日本は北朝鮮を国家として承認していませんのでので、国という言葉を使わな
いということもあって、「未入国」ではなく、「未入境」になっていると思いま
す。

 とにかく北朝鮮は「入っていない」と言っています。「入っていない」認定被
害者というのが一つの枠組としてあります。それは曽我さんのお母さんと、田中
実さん、久米裕さん、そして松本京子さんです。この4人は、「死んだ」と言わ
れているのではなく、「入っていない」と言われています。

 なぜ彼らはそう言うのか。13人しか拉致を認めなかったわけですが、日本政
府は17人認定していますから、4人の違いは何なのかを考えていきたいと思い
ます。

 そのために、北朝鮮は曽我さんのお母さんについて何と言っているのかという
ことをまず確認して今日の集会を始めたいと思います。

 お手元に、平成14年10月2日「拉致問題に関する事実調査チーム」と書か
れた資料があると思います。今から10年前、北朝鮮が拉致を認めました。しか
し、その時一方的に、「8人死亡、5人生存」と言いました。曽我さんの名前は
その時初めて出てきましたが、外務省は現地で調査をしなかったわけです。

 そして調査をしたのが、9月末から10月初めにかけてで、10月2日に日本
に戻ってきて家族会に説明し、記者会見で説明した外務省が作ったペーパーです。
北朝鮮がそれぞれの人についてこう言っていましたということを日本政府がまと
めたペーパーです。

 当時の調査団長は斎木さんです。田中局長とけんかしながら北朝鮮に対して根
拠を示せと机をたたいたんです。余談になりますが、8人のうち7人の、横田め
ぐみさん以外の死亡確認書は出てこなかったんです。7人については、死亡口頭
で説明しただけです。斎木さんは最後のセッションで、机をたたいて、「家族が
待っているんだ。こんなんじゃ帰れない」と言ったら、北朝鮮代表団がいなくなっ
て、2時間して帰ってきたら、でたらめな死亡確認書を持ってきた。ゴム印の位
置が一緒だったりするのを持ってきました。その紙を持ってきたから、でたらめ
だと今言えるんです。口頭で納得して帰ってきたら、「言った」、「言わない」
ということになってしまう。

 その点では斎木さんがやったことを評価しているんですが、その斎木さんが北
朝鮮から聞いてきたのが曽我ひとみさんに関する情報がこれです。
確認します。

1.朝鮮名:ミン・ヘギョン
 これはそうですが。(曽我さんうなづく)北朝鮮で使っていた名前だそうです。
 1959年5月17日生まれ。
 本籍が「佐渡郡ハタノマチ」とありますが、ハタノマチは隣町で、真野町のま
ちがいです。出生地も真野町のまちがいです。住所もそうです。

5.現住所:平壌市スンホ(勝湖)区域リプンクリ(立石里)というのはあって
いますね(うなづく)。

6.前職:佐渡総合病院看護婦。これは合ってますね。

7.現職:被扶養生活。これは北朝鮮の用語で主婦ということです。
 ここは問題ないですが、8番を見てください。

8.入国経緯:1978年8月12日。
 ここだけは合っています。「特殊機関工作員が身分隠しおよび語学教育の目的
で現地請負業者(日本人)に依頼し、引渡しを受けて連れてきた」。拉致につい
て現地請負業者があり、それも日本人だと言っている。「身分隠しおよび語学教
育」というのは、いわゆる背乗りという身分を取ることと、語学教育というのは
当時既に日本で明らかになっていた拉致の目的にすりかえたと思われます。

 問題はこの「現地請負業者」です。続いて、

9.入国後:約2年間特殊機関の招待所において、語学の学習、参観を通じ、実
情に慣れてきた。1980年8月8日、入北した米軍元兵士と結婚し、国家から生活
条件を保障されて暮らしている」。これは間違いないですね(うなづく)。

10.家族関係:夫チャールズ・ロバート・ジェンキンス。62歳。南朝鮮侵略
軍と書いていますね。第一騎兵師団8連隊1大隊C中隊の分隊長として勤務中に
1965年に入国。曽我ひとみさんと結婚して、2人の娘をもうけた。美花さん
とブリンダさんのことが書いてあります。

 これも生年月日などは間違ってないですね(うなづく)。

 その次、11を見てください。曽我ミヨシさんについて北朝鮮が公式に説明し
ているのはこの2行なんです。

11.母・ミヨシさんについては承知していない。特殊機関工作員が現地請負業
者から引渡しを受けたのは曽我ひとみ一人だけ。

 日本政府が認定している曽我さんのお母さんについて、北朝鮮の公式説明はこ
れだけなんです。これがいかに根拠がないことかということを、みなさんの前で
あきらかにするというのが今日の集会の主題です。そのために、78年の8月1
2日にいったい何があったのかということを、集中的に曽我さんから聞かせてい
ただきたいと思っています。

 そして現地を取材し、何回も書いているジャーナリストで、救う会の「拉致の
全貌プロジェクト」の委員でもある惠谷治さんにも来ていただきました。曽我さ
んには、現場で体験したことを語っていただき、我々が分析するという形で、こ
の北朝鮮の言っていることがいかにおかしいのか、北朝鮮が曽我ミヨシさんにつ
いて説明する責任があるということをここで証明していきたいと思っています。

◆初めて公開−曽我さん親子拉致の詳細

 まず曽我さんにお願いしたいんですが、みなさんのお手元に、2003年11
月12日付けの救う会のメールニュースが配られています。これは当時、曽我さ
んが国連人権委員会の強制的失踪作業部会に提出された、曽我さんが書いたもの
です。

 これは、曽我ミヨシさんのことをジュネーブの強制的失踪作業部会でとりあげ
てほしいというものです。自分のことじゃなくてですね。そしてお母さんについ
て自分が知っていることについて国連に出されたものです。

 これを見ながら8月12日に何があったのかを、曽我さんの言葉で話していた
だければと思います。まずはご挨拶をお願いいたします。

曽我ひとみ みなさんこんばんは(拍手)。今日は、足元の悪い中、こんなに大
勢の方々がここにお集まりくださいまして、大変ありがとうございます。今日、
この場を作っていただいた救う会の方々に、改めて感謝の気持を伝えます。

 私は10年前に日本に帰国しました。10年の間色々なことがありましたが、
いつも気にかかっていることがあります。それはただ一つ、母のことです。今年
(12月で)81になります。本当に母のことを考えると、居ても立ってもいら
れない気持でいっぱいになります。

 今日、こういう場をもうけていただいたことに感謝しながら、この場で少しで
も母の救出のために何か明るい光が見えてくればと心から願っています。
ではこれから、私が拉致されたことをお話したいと思います。

 私は、1978年北朝鮮に拉致されました。ちょうどお盆の前の8月12日の
土曜日でした。私は看護師の仕事をしながら、決まって土曜日には家に帰り、日
曜日の午後にまた寮に帰るという生活が続いていました。

 ちょうどその日も土曜日で、午後家に帰りました。お盆前ということで、母が
少し足りないものがあるので買い物に出かけようということになりました。その
時、6つ違いの妹がいたんですが、妹も母と一緒にでかけたい、私も1週間会え
なかったので1週間にあったことを色々話をしたかったので、一緒に行くより母
親と二人きりで行きたいなという気持がありまして、妹とちょっとだけけんかを
した覚えがあります。

西岡 つまり妹さんを置いてお母さんと二人になりたかった。

曽我 はい。それで結局、私と母と一緒に買い物にでかけることになりました。
行きは病院であった話などを色々しながら、楽しく店まで着きまして、店で買い
物を終えてまた家に変える途中のことでした。

 歩道を歩いていたんですが、もう薄暗くなっている時間帯で7時は過ぎていた
と思います。夏場ですので、7時を過ぎてもまだぼんやりと明るいくらいの時間
帯でした。母と話をしながら歩いていましたら、何かちょっと後ろの方から人の
気配を感じまして、一度後ろを振り向きました。

 そうしたところ、男の人が三人、縦並びじゃなく、横並びで、私たちのあとを
ゆっくりとついてくるのが見えました。「なんか変な男の人たちが後ろから付い
てくるね」と母と話しながら、「気味が悪いから早く帰ろう」と、少し足早に歩
き始めた時でした。

 後ろから三人の男の人が急に駆け寄ってきまして、道端にある植え込みの中に
私と母親を引きずりこみました。その時私は口をふさがれて、袋をかぶされまし
た。一緒にいた母親は、そのとき以来一度も声を聞くこともなく、姿を見ること
も今までありません。本当に夢のような話で、自分自身もよく分からないところ
がいっぱいあります。

 その後ですが、私は袋に入れられたまま小さな船のところまで行きました。そ
の船の上にしばらくいましたが、ちょっと離れた所で日本語を話している声が聞
こえてきました。その日本語は佐渡の人が話している佐渡弁ではなく、日本人で
もない、ちょっと発音が違う、そんな印象を受けています。

 私も袋をかぶされたままの状態だったので、話している内容というのはよく分
かりません。その後、しばらくしてから大きな船に乗せられて、次の日の夕方北
朝鮮の清津というところに着きました。その時には、清津というところは分から
なかったのですが、後で時間とか計算したら清津の港だったということでした。

西岡 細かいことは後で惠谷さんに事実を確認していただきたいと思いますが、
まずこの8月12日という日は、市川さん・増元さんが拉致された日と同じ日で
す。同じ日に、佐渡と鹿児島で拉致があったわけです。

 今の話で私がまず確認したいのは、お母さんと一緒に道で襲われた。それは三
人の男に襲われた。その三人の男は日本人でしたか、朝鮮人でしたか。

曽我 日本人ではありませんでした。

西岡 それはなぜ言えますか。

曽我 北朝鮮に行った時に、その男の人たちもいたので分かります。

西岡 つまり、襲ってそのままその男たち三人も一緒に木の船に乗り、そして大
きな船に乗って清津まで一緒に行った、と。その襲った人たちだと間違いなく分
かることですか。

曽我 顔付き一つひとつと言われると分かりませんが、一緒の時間に私が着いた
清津の招待所に一緒に着いています。そして工作員の女性とも何をしゃべってい
るのか分かりませんでしたが、話していたので。

西岡 (もう一人の小船にいた)工作員の女性というのは金ミョンスクですよね。

曽我 はいそうです。

西岡 もう名前が明らかになっていますが、金ミョンスクは日本語ができたわけ
ですね。

曽我 日本語はできます。

西岡 船の中でも曽我さんと話したんですか。

曽我 少し話しました。

西岡 つまり、金ミョンスクという女性工作員が木の船には一緒に乗っていたわ
けですね。

曽我 はい。

西岡 それと男の三人がいて、一緒にそのまま北朝鮮に行ってるわけです。(日
本人の)業者は関係してないんです。誰か下請けに出したとすれば、隠れ家みた
いなところに連れていかれて、そして北朝鮮に捕まえることができたと連絡して、
接線をする。そうではなくて、現場で、曽我さんとお母さんが一緒に襲われ、そ
のまま連れていかれた。

 この事実だけでも北朝鮮の言っている「現地請日本人負業者に依頼した」、
「引渡しを受けた」と違う。引渡しを受けてないわけです。それは間違いないで
すね。

曽我 はい。

◆工作員が日本で話した相手は曽我ミヨシさんの可能性

西岡 ということが明らかになるわけです。もう少し細かいことを配布資料の地
図(惠谷治作成)を見ながら聞いてもらいます。

惠谷 細かいことですが、曽我さんを信じてないのではなく、確認をしたいだけ
です。まず、お母さんと二人で家を出て、道を渡って海側の歩道を逸見商店まで
行かれたんですね。その時私が取材した逸見商店では、ひとみさんとお母さんが
二人で来るのは初めてではなかったか、と言われていましたがどうですか。

曽我 私は中学校を卒業してから看護学院に入りました。それが金井という場所
にありましたので、2年ほど寮に入っていました。その後そこの病院で働いてい
たので、何年かは一緒に店に行くということがほとんどなかったと思います。

惠谷 つまり、子どもの時期はあったけれども、卒業後は初めてだと。

曽我 はい。

惠谷 これは工作員がどういうことで監視したかという意味での確認です。お母
さんと店を出て、また海側の歩道を戻られた。日本農機具整備工場を過ぎて、ど
こかの家の植え込みに連れ込まれたということですね。

曽我 そうです。

惠谷 振り返った時、三人の顔を覚えている必要はないんですが、顔が分かるく
らいだったか、顔が分からない暗さか、どうでしたか。

曽我 もちろん離れているということもあったので、また薄暗い状態だったので
顔の輪郭がどうだったかというところまでは分かりません。

惠谷 私は事件から25年後の同じ日、同じ時間に現場で取材しました。その日
は6時33分が日没です。曽我さんは7時か7時半頃と、当然時刻を覚えている
筈はないんですが、7時すぎならまだ明るい。真っ暗な中で襲ったというわけで
はない。つまり犯行は目撃される可能性がある時間だったということです。そし
て民家の植え込みに連れ込まれた。

 口をふさがれたのはどういう状況でしたか。またタオルのようなものですか、
器具のようなものですか。

曽我 きれのようなものでした。

惠谷 手足を縛られましたか。

曽我 はい、手足も縛られました。

惠谷 その時、ガムテープのようなものとか、ひもとかご記憶はありますか。

曽我 ひものようなもので、ガムテープではなかったです。

西岡 手錠じゃなかったですね。富山の事件のような。

曽我 はい。

(2につづく)

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