救う会全国協議会

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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

元連絡部工作員の証言(2008/09/15)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆( 2008.09.15 )

救う会「拉致の全貌と解決策研究プロジェクト」(責任者・西岡力会長代行)ではこ
の間、元工作員らをはじめとする北朝鮮関係者からの聞き取りを続けてきた。
その成果の一つとして、9月15日の緊急国民集会で、元朝鮮労働党連絡部工作員金東
赫氏(仮名)の日本人拉致に関する重要証言をビデオで公開した。
本メールニュースでは、時間の関係で、集会で公開できなかった部分も含めて金東
赫氏証言を掲載する。証言は平成20年9月8日、ソウルで救う会西岡会長代行が聞き取っ
たもの、翻訳整理も西岡が行った。


――自己紹介をしてください。

名前は金東赫(仮名)、1936年4月28日、ソウル生まれです。朝鮮戦争が起きた次の年、
1951年3月に敗走する北朝鮮軍に拉致されて北朝鮮に行きました。そこで3ヶ月間特殊
訓練を受けて、対南工作部隊「526軍部隊」に入隊して鉄条網、地雷をくぐって南に入
るルート工作をしました。

水原まで南下して国連軍の反撃を受けて1個師団が分断され、後退できないでいた中
共軍敗残兵402人を救出するピストン作戦に参加して全員帰還させる手柄を立てました。
それで、普通の人が入るのは困難な金剛学院、中央党学校、そして金日成大学まで入
りました。

ところが、57年南労党2次粛正の時に金剛学院に推薦されたことが禍になって退学に
なりました。文川機械工場の労働者として追放され、苦労したこともあります。

それから67年に再び工作員として選ばれて、そのときから10年間、連絡部工作員と
して、韓国に7回侵入しました。そして1976年9月に韓国に亡命しました。

亡命した動機は、すでに1957年南労党2次粛正の時に粛正されたつらい記憶があり、
その上、73年に金日成が後継として金正日を擁立する過程を見守りながら「これは共
産主義の原理に合っていないからだめだ」と幻滅を感じ、金正日が対南工作分野まで
掌握するための事前布石として連絡部対南事業に対する集中検閲を断行し、そこで金
仲隣書記以下、対南部署幹部を全部、更迭して対南工作部署を自分の直属体系に替え
る過程を見て「これは到底だめだ」と考え、大韓民国に亡命する決心を固めました。

機会を見ていて76年9月に巨文島に南派されたとき、同僚たちに集団亡命を訴えたと
ころ、そのうち一人が突然抵抗したため激闘を展開したすえ、結局一人で亡命するこ
とになりました。

――連絡部工作員時代、金日成教示をみな記憶したということですが、今も金日成教示
を覚えていますか。

もちろんです。それは頭の中に入力して侵入してこなければならない。あの多くの
資料を全部持ってくるわけにはいきません。重要なものは頭の中に入っています。

―――工作員は金日成教示をみな覚えているのですね。それでこそ工作員ということです
ね。

そうです。

――金日成教示の中で、日本人拉致に関係する教示があると聞きました。金先生はその
ことを著書『金日成の秘密教示―対日・対南工作、衝撃の新事実』(産経新聞出版、平
成16年)にも書かれましたが、その部分について説明してくださいますか。

金日成秘密教示の中の一つにこのようなものがあります。
「万景峰号は帰国同胞の事業だけではなく南朝鮮革命と祖国統一を推進する事業を展
開しなければならない。だから新潟に停泊している間に同志たちは革命に有益なこと
を探し行うべきだ。南朝鮮革命に必要な情報の入手や、必要なら日本人を包摂工作し
拉致工作もすることもできる」

――この教示はいつ出されましたか。

1969年にこのような教示がありました。

――包摂工作とはどのような工作ですか。

日本人を相手にして説得して北朝鮮の工作員として吸収することです。

――本人自らが工作員となる…。

そのようになるように誘導する工作です。

――拉致工作とは。

拉致工作とはその人が必要なのだが包摂ができない。その場合に拉致するのです。

――69年にこの教示があったのならば、日本人拉致は少なくとも70年代からはあった。
そう思われますか。

70年代中盤より前までは、日本人拉致工作にそれほど神経を使うことがなかった。
60年代は対南工作の成功率がとても高かったです。北の工作員が南の縁故地に侵入す
るので成功率が高く、あえて日本を通じて行う必要がなかったのです。

それが、(68年に)統一革命党が破壊された後、70年代に入り沈滞期を迎え、70年代
初めの南北の対話、赤十字会談、調節委員会の南北対話が展開したので工作を一時中
断することになりました。そのようなため70年代中盤までは対南工作実績がとても不
振でした。

それで金正日が対南事業に対する集中検閲を断行し、50年代以来これまでの対南事
業の成果はゼロ、零点だとしました。いったいどのくらい不振だったからそんな言い
方になったと思いますか。そして工作機関を自分の直属体系に入れ替えした後、対南
事業を推進しようとしました。

ところが、歳月が流れたので南出身工作員の源泉が枯渇し、仕方なく日本を通じた
迂回侵入工作に比重を高めるしかなくなったのです。それで日本を対象にしたいろい
ろな工作をしたので、拉致工作に神経を使うようになったのです。ですから、70年代
中盤以後に日本人拉致工作が多くなされました。

――(69年の)金日成秘密教示以後も、拉致はあった可能性はあるが、それほど多くはな
いということなのですか。

そうです。たまにあったかもしれないが、その頃は日本人拉致工作が実際あったと
いう話しはあまり聞いたことなかったです。70年代中盤から、向こうにいるとき日本
人拉致の話しを時々聞きました。

――70年代中盤、あちらにいらしたとき実際に日本人を目撃されたということを聞きま
した。このポスターは日本から拉致された可能性がある人たちのポスターです。ここ
にもし顔が出ているならチェックしてください。

この人を見ました。(特定失踪者調査会が作ったポスターから75年4月に兵庫県から失
踪した萩本喜彦さんの顔写真を指す。なお、9月14日、金氏にポスターのものとは異な
る萩本さんの顔写真11枚を見せたところ「この人に間違いない」との回答を得た)

――この人間違いないですか。

間違いないです。私はあちらで見たときには、日本人工作員と思いました。

――いつ見ましたか。

75年、8月に平壌曲芸(サーカス)劇場に行ったときです。私たち(金氏と担当指導
員)はサーカス劇場にはいるとき、入り口で車を降りて玄関まで歩いていきました。他
の工作員たちは玄関まで車に乗っていくが、特別に私たちは入り口から歩いていきま
した。

そのとき指導員が、「日本から入ってきた工作員が今日ここに来るから、接触しな
いように用心しろ」と指示しました。それで私たちは歩いて入っていくと、少しして
ニッサンが一台入ってくるのを見ました。

私たちはあそこにいたとき、ニッサンに乗ったことはないです。ソ連製ボルガに乗っ
ていました。連絡部工作チームごとに割り当てられた車がありますから。

ニッサン一台が入ってくるのを見て、「あれだな」と思い見たら、後ろからその人
が一人で降りてきました。指導員は前の運転手の横の席に座っていました。後ろから
降りたのが、その人です。かなり若く見えました。

――劇場の前で

玄関の前で車から降りてきたのです。車は行ってしまい…。

――金先生たちが入り口から玄関に向かって歩いているとき、玄関でその人が車から降
りてくるのをごらんになった。顔も見ましたか。

はい。特徴があります。目が細い。

――そのとき、年齢は何歳くらいに見えましたか。

私が40歳だったのですが、私より5、6歳下のようだったです。

――この人は1940年生まれです。

それなら私より4歳下ですね。

――背は。

背は私より低い。私がそのとき1メートル68だったから、私より大体、4、5センチ小
さかった。

――失踪時165センチですから2センチ小さかった。そのとき、玄関で見て、それから劇
場の中でも見ましたか。

劇場の中では見ませんでした。劇場の中で座席が遠く離れているので、遠くの席に
いるのを眺めました。

その次に、南朝鮮革命史跡館に行ったときか、よく思い出せないが、とにかくその
後にも2回くらい見た記憶があります。 

――合わせて3回目撃した。

たぶん、3、4回見た気がします。

――南朝鮮革命史跡館に行ったときというのは、史跡館がある工作員養成学校の入り口
でのことですか。

私たちが南朝鮮革命史跡館に行くとき、その人が金日成軍事政治大学(金氏は当時の
工作員養成学校の名前をこのように記憶している。後の金正日政治軍事大学)から出て
きたのです。大学の入り口近くで車がすれちがうことになった。そのとき見た記憶が
あります。

――ニッサンでしたか。

そうです。

――どのような服装でしたか。

私服、スーツでした。

――ネクタイしていましたか

していました。

――75年4月に失踪していますから、失踪してから4カ月しかたっていない。そのとき、
工作員だったのですかね。

4カ月なら、その人に対する調査作業が全部終わっています。終わっている状態です
から、その人をどこで使うかについてはまだ決定が下っていない段階かもしれません
が…。心を安定させるために特別招待所のような処に入れて、よい待遇をしてやってい
る時期です。

――大学の中にも招待所は多いからそこから出てくるところですれちがったということ
ですか。

そうですよ。拉致された人を、その人の性質だとかIQ、臨機応変さ、大胆さ、沈着
さ、決断力、特殊工作員として持たなければならない典型的な気質があるのかどうか
を全部調査する過程で、この人は特殊工作員としての気質があるとされたときは、工
作員として選抜するのです。そのときから、専門的な訓練に入ります。

75年8月ならば、調査が一端終わった段階だから、まだ、工作員として使うか、何に
使うか分からないが、そのときは、よい待遇をしてやって心の安定をさせる。そうい
う段階です。

――その後、彼を見たことありますか。

その後は見たことないです。76年に私はこちらに来ましたから。

――日本人拉致被害者が全部で何人だと思いますか。

日本人拉致被害者の数は、私がこちらに来て30年間、日本の防衛庁だとかいろいろ
な機関が出した資料でそれぞれ抜けているところがあるのを総合すると80人程度にな
ると見られます。

その中には、成人もいる可能性があるでしょうし、小中高生、子供もいる可能性が
あります。男もいるでしょうし、女もいるでしょう。その中で、北朝鮮は各個人ごと
に調査をしてみて…。日本から拉致した人たちは北朝鮮社会に適応できません。だから、
社会に出すことはできない。工作関係部署で使うしかないのです。

特別に工作員になれる気質を持っていれば工作員にします。なぜなら、そのような
気質を持っている人は千人中に1人、2人選ぶのも困難だというのがこれまでの統計で
す。

――残りは教官として使う。

そうです。そうするしかありません。

――全員を救出するために日本政府はどうすればいいと考えますか。

日本政府だけでなく各市民団体やNGOを動員して、北朝鮮の人権問題で強く世界的に
圧迫して、結局、北朝鮮の金正日政権がそれ以上は隠すことができないように各方面
から圧力を加えなければならないと考えます。

――ありがとうございました。



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