寺越外雄さんの家族の現状?東京連続集会51(2010/03/16)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2010.03.10)
■寺越外雄さんの家族の現状?東京連続集会51
以下は、「寺越外雄さんの家族の現状」をテーマに、平成22年2月24日に開催
された「東京連続集会51」の記録です。文責=編集部
寺越事件:昭和38(1963)年5月11日深夜、石川県富来町(現志賀町)の寺越
昭二さん、弟の外雄さん、二人の甥(長兄の子)の武志さんがハチメ(メバル)
漁に出た。港から400mの所で網を仕掛けていたところ、北朝鮮の工作船が侵入
し、漁船に衝突。その後、抵抗した昭二さんが銃撃され海に沈められ(安明進元
工作員証言)、残された二人が北朝鮮に拉致された事件。北朝鮮は、「北朝鮮の
船が遭難していた3人を救助した。3人は北朝鮮で生きていくことを選び、昭二さ
んは1968年3月30日に北朝鮮で死亡」と主張。政府は平成19(2007)年11月6日、
福田康夫首相名で同事件は「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案に該
当」との見解を初めて示した。
西岡力・救う会会長代行
◆外雄さんの家族写真
この写真を見てください(寺越外雄さん、妻の韓福生さん、長男の金明哲さん、
長女の金明心さんの家族写真)。後ろに写っているのが寺越外雄さんです。1989
年1月に写されたものです。寺越友枝さんの二度目の訪朝の時に、友枝さんが預
り、兵庫県に住んでいる外雄さんの兄の文雄さんに届けられたものです。
このような写真がかなりたくさんあります。外雄さんが北朝鮮に連れて行かれ
向こうで結婚し子どもがいたということは、一部では知られていましたが、配布
資料(メールニュース・ホームページ22.02.24参照)にある通り、外雄さんは、
残念なことに肺癌で、94年9月5日に亡くなったとされますが、このことは私たち
は間違いないと思っています。北朝鮮の「遺骨」は信用できないものですが、肉
親が「亡くなった」という手紙を書いてきていますので。
その後、97年に家族会ができ、またその後救う会ができました。我々としても、
亡くなった人より生きている人の救出を考えていたこともあって、外雄さんの名
前をあまり表に出してこなかったのです。
◆寺越武志さんの戸籍回復
私は1991年に、『諸君!』という雑誌に拉致のことを書き、拉致被害者名簿13
人の中で、寺越昭二さん、外雄さん、武志さんのことも書きましたが、情報が錯
綜していていました。どこかに外雄さんが94年に死んだということが書かれたた
め、3人とも死んだものと思ってしまい、97年の時点では武志さんも死んだと思っ
ていました。それを荒木和博さんが『月刊正論』に書いたのです。それに対し、
母親の寺越友枝さんから抗議が来て、「武志は生きている!」と言われました。
これが友枝さんと我々との最初の出会いです。
そこで友枝さんと色々話をして、「生きているということであれば戸籍を回復
したらどうですか」ということになって、97年の6月に武志さんの戸籍は回復さ
れたのです。
その時、外雄さんの戸籍も一緒に回復されてもよかったのです。そして、今日、
法務省で話を聞いてよく分かったのですが、地上での管轄は警察ですが、漁業の
操業中に行方不明になった海難事故の場合の管轄は海上保安庁だそうです。海上
保安庁が、死体は上がっていないが、諸般の状況から死亡だと認定することが法
的になされ、それにもとづいて市区町村で戸籍の処理がなされるということです。
武志さんの戸籍回復は保安庁で行いました。本人が生きていて、テレビにも出
てきていますし、写真もありますので、生きている証拠があります。そこで、63
年に死んだのは間違いだったということで、97年時点で死亡取消し認定をし、そ
れに基づいて戸籍が回復しました。
しかし、97年時点で外雄さんは亡くなっていたので、死亡日の変更レベルのこ
とだったのです。海上保安庁から兵庫に住んでおられる外雄さんの兄の文雄さん
に電話がかかってきたそうです。ここには来ておられませんが、今日の要請には
来られました。そして、「外雄さんの戸籍回復をどうしますか」と言われたそう
です。
◆外雄さん家族の戸籍回復を
その時、今日、文雄さんが中井大臣にもおっしゃっていましたが、「自分とし
ては、もう死んでいる人の死亡日だけ変えることをしても、役所の人の手間をわ
ずらわすだけで申し訳ないのでやらなくていいですよと言ってしまった」と。し
かし、二人の子どもは日本の戸籍に載っていません。死亡日を変えなかったため
に、死亡の後に生まれたことになります。従って、戸籍回復のために出生届を出
そうとしても、死んだ人に子どもが生まれるわけはないということになってしま
うわけです。
友枝さんは97年の時点で名乗りを上げて、家族会に入ると言ってみたり、また
入らないと言ってみたり色々なことがありましたが、それ以外の寺越昭二さんの
家族の人たち、そして外雄さんの家族と長く文通をしていた文雄さんたちは、そ
れまで友枝さんの活動を見守っていたのです。
寺越家では、「3人の拉致被害者はいるけれど、生きているのは武志だけだ。
武志が一番いいようにするのが優先だ。北が拉致と認めていないのに、『拉致だ』
と、友枝さんと違うことを言うのは、武志にもしも危害が加えられることがあっ
てはと、我慢していた」というわけです。特に、昭二さんの家族に対しては、
「遺骨」といわれるものが来たけれど土しか入っていなかったので、言いたいこ
ともいっぱいあったわけですが、武志さん優先ということでずっと黙っておられ
たのです。
◆「拉致だ!」と言っても危害を加えられない
それから5年経って、2002年に小泉訪朝がありました。そこで金正日が拉致を
認めた。「拉致疑惑」が「拉致」になった。そして、「拉致していない」と言っ
ていた人のうち、5人が生きて帰ってきた。それを見て、「拉致だ!」と言って
も危害を加えられないことを目の前で見て、「武志のことはあるけれど、金正日
が拉致を認めたのだから他の家族が拉致と言っても武志に危害を加えることはな
い」と判断され、昭二さんの3人の子どもたちと文雄さんが家族会に入ると言わ
れたのです。それが2002年の10月。
その時、私はお会いして色々な話を聞きました。寺越家は11人兄弟で、武志さん
のお父さんが長男で、昭男さんたちのお父さんの昭二さんが次男、文雄さんが3
男、外雄さんが4男です。また昭二さんが拉致されたため、子ども3人のうち2人
は養子に行かれるなど色々複雑です。3人の被害者の中でも、一人昭二さんは、
北朝鮮は病死と言いますが、安明進証言ではその場で殺されたということで、昭
二さんに北朝鮮で会った人はいない。外雄さんは北朝鮮で日本人に会っています。
そして病死となっており、武志さんは健在とそれぞれの状況が違います。
◆墓に「遺骨」があるのか
そういう複雑な状況の中で、我々の運動の中で、昭二さんの子ども3人が名乗
り出られました。昭二さんの遺骨が本物なのかどこにあるのか、現場で殺された
という安明進証言は正しいのかどうか。北朝鮮はこの墓(写真)の中にあると言
うのですが、コンクリートが新しかったり、墓に刻まれている誕生日が違ってい
たり、本人が嘘の誕生日を北に教えるのかということもあって、「問題が起きた
から墓を作ったのではないか」という疑惑があります。
だから、墓に遺骨があるというのなら遺骨を返してくれ。DNA鑑定をして、本
人のものであれば、現場で殺されたのではなく、北朝鮮に上陸して病死したとい
う北の主張が正しいことになる。墓が空っぽであれば、安明進が言っているよう
に、現場で殺されて海に死体が投げ棄てられたという説が正しいことになる。真
相を究明してほしい。そうでなければ、国交正常化になった時に、寺越家は、遭
難を助けてもらったと、北朝鮮に感謝しなければならない。自分たちは北朝鮮に
感謝する立場なのか、お父さんが殺されたのかはっきりしてほしいと言われてき
ました。
外務省でも、今のアジア局長である斎木さんが参事官の時に何回か行き、「分
かりました」ということで、外務省も遺骨の返還問題を日朝交渉に出してくれま
したが、北朝鮮からは返事がありません。
◆武志さんは「私は拉致じゃない」
他方、友枝さんは今も訪朝して武志さんを経済的に支え、武志さんは、「自分
は拉致ではない」と言い続けています。武志さんの問題で、我々が貢献したと思っ
ていることが一つあります。97年、家族会ができ、続いて救う会ができ、「武志
さんも拉致だ、拉致だ」と言ったのです。それに対し、武志さんが記者会見して、
「私は拉致じゃない」、「北朝鮮はいい国だから残ったのだ」と言った。その後
武志さんは引っ越したのです。
それまでは、平壌の北にある亀城(クソン)市という地方都市に住んでおり、
旋盤工ということになっています。それが平壌に引っ越して、平壌市の職業総同
盟の副委員長になった。ものすごく広いマンションに住んで、そこで誕生パーティ
ができるくらい。そこに日本から政治家が行って、森元総理もそこに行って金容
淳(故人、元朝鮮労働党中央委秘書=対南担当)などと会っている。「北朝鮮の
方がいいから日本に連絡しなかった」と言っている人の家が貧しい家なら、嘘に
なってしまいます。「いい暮らしをしている」と言わせた以上は、いい暮らしを
見せなくてはならない。そして待遇が上がったのです。副委員長と言っても権限
はないと思いますが、階級に合った配給になります。
その頃は大飢饉の頃でした。その頃、配給のいい階級にあげることができたと
いうことは、向こうでは「迷惑だ」と口には言っていますが、我々の運動の成果
ではないかと内心思っていました。名前を出して訴えたらどうなるか。待遇が上
がったのです。
そして武志さんは2001年に、『人情の海』という長編手記を出したのです。そ
の中で、こう言っています。「出漁していたら変な船とぶつかって海に投げ出さ
れた。気がついたら北朝鮮のベッドで寝ていた」。ぶつかった船は北の船ではな
いことになっています。正体不明の船にぶつかって、その後、助けてくれたのが
北の船ということになっています。その時3人は、「北朝鮮は日本人を恨んでい
る。自分たちが日本人だと言ったら殺されるかもしれない。在日朝鮮人というこ
とにしよう」と言って、北朝鮮に嘘をついたことになっています。それが間違い
だった、と書かれています。なかなかうまくつじつまを合わせるものだと思いま
した。
それで、「日本のなんとか協議会とかなんとか連絡会という人たちが私のこと
を拉致と言っているけどそれは間違っている」と批判しています。「なんとか協
議会」というのは救う会全国協議会のことでしょうし、「なんとか連絡会」とい
うのは、被害者家族連絡会(家族会)のことでしょう。この2001年の本では、横
田めぐみさんの拉致も、田口八重子さんの拉致もでっちあげ、北がするわけがな
い、と書いてありますが、金正日がその1年後に拉致を認めてしまったので、武
志さんはその後、どう説明するか聞いてみたいところですが、無理やり書かされ
たということです。
◆拉致被害者なのに日本に手紙が出せたケース
しかし、この間、外雄さんのことはほとんど運動の中で取り上げてこなかった
のが実情です。この東京連続集会を友愛会館でやっていた時は、一人ひとりの被
害者家族が思い出を語るという集会をやってきましたが、外雄さんについてはや
らなかった。寺越事件は昭二さんのことだけをやり、写真パネルの中には一枚だ
け外雄さんの写真が入っていますが、外雄さんがどういう人だったのか、そして
外雄さんのことを語るのならば、外雄さんの家族を語らなくてはならなかったの
です。
外雄さんは向こうで結婚しています。しかし、あとで長瀬さん(救う会兵庫会
長)から説明がありますが、外雄さんは拉致被害者なのに日本に手紙が出せたと
いうケースです。87年からたくさん手紙が来ています。文雄さんのところに100
通くらい。その他にお姉さんのところにも送っています。外雄さんが亡くなった
後も、奥さんの韓福生(ハン・ボクセン)さんから、夫のお兄さんである文雄さ
んのところに来ています。一番新しいのは昨日来ました。だから文通ができてい
るのです。手紙のやり取りが自由にできているケースです。
余談になりますが、では87年に、なぜ北朝鮮が拉致被害者なのに手紙を許した
のだろうか。他の人はそんなことができないのに。それを考えると管理が違って
いたのではないか。60年代の寺越事件と、76年の金正日による現地化指令の後の
拉致とは、系統も担当も違うようです。
金正日の現地化指令により、テロに関わるような秘密に関わった人たちはいな
いことになっているので、手紙なんかもちろん書けないわけです。北朝鮮は関係
していないと言わなければならない。しかし、武志さんと外雄さんについては、
手紙を書かせた。結婚相手は、帰国在日朝鮮人です。前は、韓福生さんの家族の
方に手紙を書いていたのです。実家は大阪で、韓福生さんは1960年に帰国船で北
に帰ったのですが、その時、彼女のお母さんと妹は北に行ったけれども、お父さ
んとお姉さんは行かなかった。だから、お父さんとお姉さんは大阪に住んでいて、
今回上京された外雄さんのお兄さんの文雄さんは実家に行って何度も会っていま
す。
ところが、「今は縁を切った」、「だから関わり合いたくない」と言われたの
です。在日朝鮮人の中で一部にあるのですが、物の無心がたくさん来て、代も代
わってたくさんお金を送れなくなり、「もう関わらないことにした」という家庭
がかなりあります。多分、韓さんの家庭もそうだったのだろうと思います。そし
て、今は引っ越してしまって住所も分からないそうです。だから北から手紙も送
れない。送れなくなった頃に、外雄さんが、自分の実家に手紙を書くことが許さ
れたのです。
◆担当している保衛部員などが賄賂を取る
物が来ると、担当している保衛部員などが賄賂を取るのです。だから、担当者
も、在日朝鮮人扱いにして手紙を書かせ、物を取ろうとしたのです。そういう点
では、秘密を守ろうとする度合いが低かったということも言えると思います。と
にかく亡くなった後も手紙がどんどん来ていて、日本からずっと送られたお金で、
外雄家は大飢饉の時代を乗り切り、息子を大学までやれたのです。
息子の明哲さんは獣医大学を出て、最初専門学校の講師になられ、今は畜産技
師です。獣医師の資格を持ち、それを生かして働いているわけです。また、秘密
の場所ではなく、社会に出て働いています。そういう所に就職したり、大学に行っ
たり、大学で卒業論文を書いたりする度にお金が必要で、そういう手紙がずっと
来ていて、文雄さんのところでは弟の家族だし助けようということで、ずっと助
けてきたのです。
ただ、神戸大震災で文雄さんも被災者になってしまいました。文雄さんのうち
は理髪店ですが、お店もつぶれ、借金を返さなくてはならないということになっ
て、大震災の後からは頻繁にお金を送ったりすることは止められたそうです。そ
の後、明哲さんが結婚するという時にはお金を送ったりしていて、昨日来た手紙
では、「私たちから手紙が来るとぞっとするとおっしゃっているようだけど、し
かし助けてください」という趣旨のことが書いてありました。
そういう中で、長瀬さんが文雄さんの所に何回も通って、手紙もたくさん見せ
てもらい、段々分かってきたのは、この二人の子どもさんは、曽我さん、ジェン
キンズさんの二人の娘さんや蓮池さん、地村さんの子どもたちと同じで、日本国
籍を持ち、拉致被害者の子どもであるということです。
◆外雄さん家族は拉致被害者支援法の支援対象
今の拉致被害者支援法では、本人及びその直系家族を支援の対象としています。
小泉総理は、二度目の訪朝の時は、被害者が帰ってきているにもかかわらず総理
大臣が子どもたちを取戻しに行ったのです。総理が出て行くような位置づけが、
被害者の子どもたちであるわけです。
従って、外雄さんの二人の子どもたちも、寺越事件が拉致だと認定されれば、
被害者の子どもとして、日本の総理が出て行って、小泉さんがジェンキンズさん
を説得したのと同じように韓福生さんを説得して、「日本を信じてください」と
か言って連れてこなくてはならないという、同じ位置づけになるべき存在です。
まだ認定されていないということがありますが、どう見ても拉致です。
しかし、それをするためにも法的なことがまだ整っていない、戸籍が整備され
ていないのです。日本にいる人で一番近い人は、お兄さんの文雄さんですが、文
雄さんは今、糖尿病になられて、74歳で、いつ自分もお迎えが来るか分からない、
と。そういう中で、最後に甥と姪のためにできることは、日本国籍を回復させる
ことだ、そして政府に拉致被害者の家族としての支援を頼むことだということで
す。
それも色々迷われて、文雄さんのところはどうも、朝鮮総連が視野に入れてい
るようです。客商売をされていますから、お客さんの中にそういう人がいるよう
です。また、寺越家の内部も複雑で、友枝さんのところと、外の寺越家の家族の
人たちの間が微妙です。援助の問題で、友枝さんは、自分は「外雄さんに渡して
ね」と言われたものを外雄さんに渡したのに、寺越の他の親戚では私が武志にえ
こひいきをしたように言っている、と本に書いていますし、文雄さんの話を聞く
と、外雄さんの分として皆で集めたものも武志さんに行っているのじゃかないか、
と疑いがあったりして、「友枝さんを通さず直接送ってくれ」という手紙が来た
りしたこともあった。だから、文雄さんが外雄さんを支えていて、友枝さんが武
志さんを支えているということになっています。
文雄さんが色々なことで活動すると、友枝さんがまた色々なことをおっしゃる。
それは昭男さんたちのことについてもあったりしました。そういう中で、「もう
歳もとったので表に出るのは」と考えておられたのです。私も一度神戸に行き、
長瀬さんは何回も通っておられますが、甥と姪のことを文雄さんしか政府にきち
んと保護を頼む人はいない、と。甥と姪は家族に間違いないのだから政府は保護
すべき対象で、日本に帰ってくれば支援法に基づいて資金の提供も受けられる資
格の人です。
外雄さんは北朝鮮で亡くなっていますが、二人の子どもがいるんだということ
を政府及び世論に分かってもらわなくてはならない。そして、戸籍上も出生届を
出さなくてはならない。そういう話をして、去年の夏くらいにとの話もありまし
たが、様々な事情から延び延びになっていましたが、新政権になって、「拉致被
害者の認定を増やす」と中井大臣も色々なところでおっしゃっているので、であ
れば寺越事件は第一番目に来る筈だし、そのことをやりながら、外雄さんの二人
の子どものことも日本政府は目を離さないでくださいよ、と言いに行こうという
ことで、今日の陳情活動になったわけです。
◆政府に3項目要請
お配りした要請書では、要請事項が3つあります。
要請事項の1は、「政府は、寺越事件を北朝鮮による拉致事件と認定すること。
また、寺越外雄の家族を拉致被害者家族として位置づけること」です。
寺越さんたちはもう家族会に入っています。我々も拉致だと思って活動してい
ますが、政府がまだ認定していないのです。「寺越外雄の家族」というのは、金
明哲さん、金明心さん、そして配偶者である韓福生さんを被害者家族とすること。
そして、実は、明哲さんに子どもがいることが分かりました。拉致被害者の孫
がいるのです。まだ名前は分からないのですが、娘さんがいる。昨日来た手紙に
そのことが書いてありました。
2は、「法務省は、寺越文雄らが進めようとしている寺越外雄の戸籍上の死亡
日の変更、長男長女の戸籍作成作業を支援すること」、3は、「外務省は、北朝
鮮との交渉において寺越外雄の妻と子ども、そしてその配偶者及び直系子孫につ
いて、安全を確保し日本への帰国を求めること」で、これらの要請をしてきまし
た。
実は、この要請文を作っていて一番大変だったのは、外雄さんが北朝鮮にいる
ことは手紙等もあって分かるのですが、いつ結婚したのかが分からない。また、
いつ子どもが生まれたかも分からないのです。手紙は約100通あるのですが、誕
生日は書いてない。
◆婚姻の日も出生日も分からない
結婚については、『再会』という冊子、これは島崎譲さんという社会党の元国
会議員が、87年の友枝さんご夫妻の最初の訪朝に付いていって、帰ってきてから、
「北朝鮮に感謝する」と、「これは遭難救助事件だった」と言って作ったもので
す。寺越家にもお金を払えと言って買い上げさせられたいわく付きのものです。
1冊500円でした。これに結婚の年月日が書いてある。島崎さんは、生きていた外
雄さんから聞いたのでしょうが、子どもの生まれた日はこれには書いてない。
出生届を出すには、生まれた日付が分からないで日本の戸籍にのせることがで
きるのだろうか、と考えたわけです。だからと言って、北に電話して戸籍謄本を
送ってくれとか、外国人登録証を持ってきてくれと言えるような関係ではない。
北朝鮮は、「本人たちは誇らしい北朝鮮の国民で幸せに暮らしている。なぜ今、
日本国籍を作らなくてはならないのか」となりかねない。「右翼の反動どもがま
た陰謀をしている」となりかねない。本人たちがそれに協力すると、何か言われ
るかもしれない。そういう中で生年月日をどう特定するか。分からない中で、ど
ういうことができるのか陳情もし、法務省にも聞きにいきました。
昨日の夜まで、長瀬さんが、主要な手紙をスキャンして、それを東京に送って
きてみんなで読み、やっと生年までは特定できましたが、月日が分からない。89
年1月11日付けの外雄さんからの新年の手紙があり、「新しい年を迎え僕は50才、
妻は43才、明哲は18才、明心は15才に成りました」と書いてありました。89年で
すから、まだ外雄さんは生きておられたのです。外雄さんの出生日は分かってい
ます。1939年2月7日生まれです。そこから逆算しました。
満年齢なのか数えなのか、1月11日時点のものかどうかなど、色々と考えられ
ます。しかし、その前年の1月2日付けでは、「僕の長男明哲は今年17歳で9月に
中学校を卒業します」とあったり、94年12月には、「今年わが家では不祥事が」
あり、お父さんが死亡した、と明哲さんから手紙が来て、そこでは大学の5学年
とありました。北朝鮮では大学の5学年は満で21か22歳です。2001年に福生さん
から来た手紙では、「明哲もみなさんの援助のおかげで無事に結婚にゴールイン
致しました。今年は明心の番になりました。相手は中学校の先生で私の友達の息
子さんです(30才)。明心も27才でヨメに行く年はもうすぎたんですが、明哲の
ためおそくなりました」とありました。
これらを総合すると、福生さんが46年生れ、明哲さんが71年生れ、明心さんが
74年生れではないかと。現在の歳は、満で、福生さんが64歳、明哲さんが39歳、
明心さんが36歳となります。ちなみに武志さんは13歳で拉致され、今満60歳です。
また、『人情の海』という武志さんの手記の中で、外雄さんのことを書いてい
る部分があり、奥さん、長男長女の名前がありました。これは荒木信子さんが翻
訳したものがあり、ポクセン(福生)、ミョンチョル(明哲)、ミョンシム(明
心)と名前が合います。武志さんが「拉致はない」とした手記ですが、名前は同
じです。
実は、昨日夜まで資料を作っていたのですが、昨日北朝鮮から文雄さんに手紙
が来ました。これは偶然なのか。今までのような封筒ではなく、白い封筒でした。
文雄さんはこれを見て、朝鮮総連の人が自分たちの動きを知ってポストに入れた
のではないか」と疑ったそうですが、切手も消印も北朝鮮のものでした。我々の
資料では、「最近は手紙がない」と書いたのですが、あったことになります。そ
して、今も亀城市に住んでいます。武志さんは平壌に引越したわけですが、外雄
さんは亀城にいて、家族も亀城にいるようです。そして福生さんと、まだお嫁に
行っていない明心さんが一緒に住んでいます。明心さんは結婚したかもしれない
と思っていたのですが、それがうまくまとまらなかったようです。
そしてもう一つ、明哲さんに娘がいると書いてあります。ここで、拉致被害者
の孫の存在が明らかになったわけです。ここまでは昨日までの話です。
◆外雄さん家族は、戸籍回復がされていなくても「当然邦人保護の対象」
そして今日、3時に外務省、4時に法務省、5時10分に中井大臣にお会いしまし
た。外務省では、北東アジア課長に会いました。斎木局長は他用があり会えませ
んでしたが、この案件をよくご存知です。北朝鮮が出してきた昭二さんの「遺骨」
には土しかはいっていなかったこと、北朝鮮が出してきた昭二さんの「墓」だと
いう写真に刻まれている誕生日の日付が1日間違っていることなどです。北朝鮮
に上陸していれば、昭二さんが嘘をいう筈がありません。間違ったということは、
昭二さんは上陸していないと思われます。
外務省としてこの事実を認識し、交渉に出すようお願いしました。増元さんは
かなり厳しいことを言い、「寺越武志さんの帰国について交渉に出しているのか」
等言われました。私は、外雄さんの子どもがいることは写真や手紙で明らかだか
ら、北朝鮮で大混乱が起きた場合には戸籍回復がされていなくても、邦人保護の
観点から、明哲さんも明心さんも保護の対象にしてほしいと言ったら、「そのこ
とは当然そのように考えます」という話がありました。
その後、法務省民事局民事第一課に行き、戸籍関係の専門家の方々と実務的な
話をしました。既に、増元さんがるみ子さんの戸籍回復をした事例がありますが、
これは家庭裁判所でやりました。これも家庭裁判所でやらなければならないのか
な、と話しながら行ったのですが、先ほど話しましたように、海難事故なので海
上保安庁が管轄とのことでした。保安庁が死亡認定をし、それが市区町村に送ら
れて戸籍に反映されるそうです。るみ子さんの場合は、陸上での事件なのでまず
失踪届けが出て、家裁が何年か後に失踪宣告をするそうです。そして戸籍が処理
される。保安庁は行政ですから裁判所にいかなくていいようです。そして、死亡
取消認定をしてもらう。武志さんもやっていますし、63年後も生きていた証拠は
たくさんありますから簡単にできます。
しかし、94年に死亡したことは別で、死亡届を法務局に出すそうです。そして
子どもを籍に入れるには、まず婚姻届を出し、次に出生届を出す。婚姻関係にあ
る人から生まれたことを法務局が認めれば戸籍に載せる。しかし、客観的な証拠
が必要で一番いいのは公的な資料とのことです。
そこで我々が、「しかし、北朝鮮という国は書類も偽物を出します。死亡診断
書も偽物だった。そもそも人質にとられていて、そこで結婚して子どもができた
ので、本人が公的資料を取れる状況ではない。人質の子どもを保護する観点から
戸籍処理をしてほしい」とお願いしました。「北朝鮮が拉致をしているから政府
が対策本部を作っているのだから、書類がどうこうでは困る」と言いました。増
元さんが、「法務局が認めなかったら異議申し立てできるのか」と聞いたら、そ
れは裁判所に訴えればできるとのことでした。やってみないと分かりませんが、
近く、手続きを進めたいと思います。
◆「法務省と警察と相談して結論を出す」中井大臣
そして中井大臣に会いました。最初、文雄さんは緊張して、「私は床屋の親父
なのでこんな雲の上の人とは話せません」と言ったら、大臣が「床屋の親父でい
いですよ」と言ってくれたので、文雄さんがワーっと話し始めて、思いのたけを
かなり長く話していました。大臣の話はあまり多くなく、寺越事件の認定、二人
の子どもの国籍回復と保護の対象にしてほしいこと、また拉致問題全般について
民主党政権になってどこか変わったのか、今どうなっているのか、ということを
質問し、話を聞いてきました。
拉致認定と国籍回復については、法務省と警察と相談して結論を出しますとい
うことでした。法務大臣とは自分が折衝します、とのことでした。その他、金賢
姫のこともやっているということなどがありました。以上が今日の活動の報告で
す。
拉致被害者に子どもがいて、さらに孫までいるという状況です。もしかしても
う少ししたらヘギョンさんが結婚するかもしれない。子どもが生まれたら横田夫
妻のひ孫になります。そのくらい日数が経っているということです。特に寺越事
件は1963年ですから。
寺越昭男 もうすぐ半世紀になります。
西岡 次に、今回の資料整理を担っていただいた救う会兵庫の長瀬さんに補足を
してもらいます。
◆100通を越える手紙には「遭難救助」と書いてない
長瀬 今回、神戸の寺越文雄さんがもっておられる厖大な数の手紙や写真を整理
するお手伝いをしました救う会兵庫の長瀬猛です。寺越さんとのお付き合いはず
いぶん長いものになります。薄紙を重ねるように信頼関係を築いて、つい最近、
「そういうことであれば手紙を一切合財預けるから整理をしてほしい」というこ
とで、手紙をお預かりすることになりました。
手紙には色々なことが書いてあります。私が関心を持ったのは、拉致の原因が
どのように述べられているかという点です。100通を越える手紙の中に、遭難で
助けられたという箇所は、一箇所もありませんでした。拉致されたということも、
もちろん書いてありませんが、北朝鮮にとって決して都合が悪くない遭難救助が
一切書かれていないのです。
ちなみに、兄弟で上から3番目のお姉さんのところに始めて来た手紙は、「色
々な事情があって北朝鮮で今暮らしていて子どもがいる」というくだりかた始ま
ります。寺越家が訪朝することになり、外雄さんから見れば母方の親戚に当たる
方がとても尽力され、その方宛の手紙も何通かありました。そこに唯一、北朝鮮
に渡った理由が述べられています。
「金沢の人たち(友枝さん)や、社会党の島崎先生たちが言っていた。だいたい
その通りです」というくだりがあります。今回公開の対象にはしていません。こ
ういうことから、寺越事件というものは決して海難救助事件ではなかったという
ことを十分読み取ることができると思っています。
文雄さんが、非常に長い間苦労しながら、弟の家族を支えてこられたことが、
手紙の中に随所に出てきます。本当に切ない手紙です。
北朝鮮は、体制に関係ないことは案外ノーチェックです。昨日届いた手紙は、
文雄さんから公開のお許しをいただきました。これには外雄さんの家族の住所も
書かれています。文面を読ませていただきます。これは2月3日、つい最近書かれ
たものです。横田めぐみさんや有本恵子さんがいる北朝鮮から、拉致被害者の生
きる証として書かれたものです。
◆外雄さん家族会から「昨日届いた」手紙
(分かりにくい記述は一部訂正)
新年、2010年を迎えご家族のみなさんお元気ですか。お久しぶりにペンを取り
ました。
今日まで心の中に秘めていた事実を書こうと思います。私からの手紙を読むの
がぞっとするそうですが、ほんとうですか? はっきり言って今、私達の生活は
貴方らには想像もできないぐらいの“固難(苦難か?)の行軍”をしております。
もう10年も過ぎました。でも全国民が団結しその固難を貫ぬいて前進しておりま
す。親戚はもちろん、となり近所の人達と食べ物が互に助けあって生活してきま
した。
外雄さんもこの波にのって日本人ですが立派な生涯をささげてくれました。現
在まで生きていればきっと共和国英雄になったはずです。こちらで朝鮮統一に身
心をささげ国際主義戦士の模範を示したことでしょう。統一後には恋しい兄弟姉
妹のいる古里に帰ると、ひとみをかがやかしながら(話していた=救う会判読)
主人が想いうかびます。武志や明哲のでるまくではありません。
今はつらい苦しい“行軍”をしても2?3年後にはきっと豊かな朝鮮“強盛大国”
になった後、貴方達、親戚のみなさんに恩返しできるよう頑張って生きて行きな
さいと思って居ります。昔から恩は恩で返せとの言葉があるが、現在の私らには
それが出きないため、私からの手紙を見るのがぞっとすることでしょう。つらい
この気持ちを良解を望みます。
話が変りますが、(文雄さんの親戚の名前あり)さんも“ガン”のおそれがあ
ると手紙にありました。文雄さん恵子さんもみんなそれぞれに病気を持っている
ようですが、どんなに辛いことでしょう。お体に気をつけて健康でいることを願っ
て居ます。
その点、私も同じです。長年の胃カタールから3年前に中国製のアスピリンが
胃にくっついて6ヶ月間の治療でよくなったと思ったんですが悪化して、胃液が
無酸で、去年の春の診断で、“胃ガン”ときき、一時は目の前がまっ暗で、淋し
さのあまりなきくずれました。後、“ガン”でも良悪があるそうで、私の場合は
良の方だと言っています。
死を決心して人間はこわい物はありません。いろいろと心配ばかりおかけして
報いることが出来ないことが胸につかえて真に申し訳有りません。私達がみなさ
んと立場が逆だったらどうしたか、最高に尽くすことが出きたかと自分自身に問
うてもみました……。
私の一生の希望は、親戚のみなさんにお逢いして気の気く(向く?)まで話合っ
て、だき合って、身内のあたたかい情を味うことでした。それで墓参りも来てく
れ、訪朝してくれと書くようになったんです。
その希望がかなえられないユメで終ってしまいました。明哲は幸せに嫁や娘が
いる家庭であるが、明心はいまだに一人。私ひとりを当てにしてだれも知人もな
い、たった一人ぼっちになるのが可哀想で、目をつぶることができません。夜は
夜でねむることが出きません。明哲の嫁さんは主人の法事にもこない。ただ武志
の家には行くそうです。
友枝はなぜ、私や外雄さんをにくむのか? 私が寺越家に何か悪いことでもし
たのか? 今は武志も他人行儀で口もききません。
又、日本でもみなさん方も、私らがなにか物でもほしさに手紙するんじゃない
かと、当てにするな、もう最後だと淋しい手紙ばかりで、私は死んでも目をつぶ
ることが出きません。明心には父さんの墓を家の前の山へうつして、私の墓もそ
こに建ててくれとたのんでいます。
文雄兄さん、恵子さん、お願いです。私がだめなら明心だけでも暖かい春がきっ
とおとずれるとお手紙一通でもやって下さい。
私と明心は、一生懸命働いて居ります。最後の血が一滴になるまで働いていく
つもりです。のらくらしてたよりにしていると考えないでください。
まだまだ書きたい事が沢山ありますが、心がへんに興奮してドキドキして手が
ふるえ書くことができません。(文雄さんの親戚の名前あり)には生前、外雄さ
んが口ぐせのように言っていました。ところがこの度“せきずい”との怖い病気
にかかってなんともいうことができません。どうかよろしく伝えてください。
くれぐれも体に気をつけて末永く幸福をお祈り致しつつペンを置きます。さよ
うなら。命がつづくかぎり手紙します。
◆「ズボンの裾をめくりました」
以上が、昨日届いた北朝鮮の韓福生さんからの手紙です。いずれももっと切な
いことばかり書いてある手紙が文雄さんの所にありました。
文雄さんは、現金を送ってもほとんど手元に残らないことが分かったので、わ
ざとズボンの裾を短くあげて、「ズボンの裾が短いかもしれないから必ず直すよ
うに」と書いて、そこに現金を挟み込んでいたという話を聞きました。また、調
査すると、「ズボンの裾をめくりました」という手紙も出てきます。これはお話
と一致してきます。情報が少ない中で、文雄さんやご家族が支えておられたんだ
なと、手紙を拝見してつくづく思いました。
寺越さんの件では、これからもお手伝いをしていこうと思っております。これ
まで私が関わった他の拉致事件に比べて、寺越事件で最も特徴的なのは、思いが
生で聞こえるほど情報量が多いということです。手紙や写真がこんなに多いのは
初めてです。この貴重な資料をしっかりまとめて実のあるものにまとめていかな
ければならないと決意を新たにした次第です。
◆「地獄のような生活から救い出」して
寺越昭男(拉致被害者寺越昭二さん長男)
今日は遅くまでありがとうございます。拉致問題は、みなさんのお力を借りて
被害者を取戻すことです。私たちだけでは太刀打ちできないという思いがあり、
国民の世論、そして家族会・救う会の力で解決していくしかありません。報道の
方を含め、今後とも宜しく応援してくださいますようお願い致します。
内田美津夫(拉致被害者寺越昭二さん三男)
私たちが声を上げ、東京に来た時に、寺越友枝さんが石川の新聞で誹謗・中傷
を行いました。それを東京で聞き、「弱ったなあ」と思ったのですが、地元に帰
る車の中で、兄弟三人で話合いました。「どんなに誹謗・中傷されても、武志と
友枝さんのことについては我々は言わないでおこう。我々子ども三人は、我々の
父親のことだけを思って活動していこう」。そういうことを三人で決めたことを
思い出します。そのことで8年間やってきましたが、外雄さんの家族については
何も活動してこなかったことを、今、悔やんでいます。手紙にもありますように、
北の生活は本当に大変だということが、皆さんにも分かっていただけたと思いま
す。北の国民も大変ですが、拉致被害者も苦しい生活を送っているのはまちがい
ないと思っています。一刻も早く、日本の国が動いて拉致被害者を取戻し、地獄
のような生活から救い出すことをやってほしいと思います。寺越の親族が必死に
なってまず拉致認定をしてもらい、「被害者だから早く返せ」という活動が実現
できるようやっていきたいと思っていますので、ご支援宜しくお願いいたします。
以上
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
●鳩山首相にメール・葉書を
首相官邸のホームページに「ご意見募集」があります。
下記をクリックして、ご意見を送ってください。
http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
葉書は、〒100-8968 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣 鳩山由紀夫殿
●救う会全国協議会ニュース
発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
TEL 03-3946-5780 FAX 03-3946-5784 http://www.sukuukai.jp
担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp)
〒112-0013 東京都文京区音羽1-17-11-905
カンパ振込先:郵便振替口座 00100-4-14701 救う会
みずほ銀行池袋支店(普)5620780 救う会事務局長平田隆太郎
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
■寺越外雄さんの家族の現状?東京連続集会51
以下は、「寺越外雄さんの家族の現状」をテーマに、平成22年2月24日に開催
された「東京連続集会51」の記録です。文責=編集部
寺越事件:昭和38(1963)年5月11日深夜、石川県富来町(現志賀町)の寺越
昭二さん、弟の外雄さん、二人の甥(長兄の子)の武志さんがハチメ(メバル)
漁に出た。港から400mの所で網を仕掛けていたところ、北朝鮮の工作船が侵入
し、漁船に衝突。その後、抵抗した昭二さんが銃撃され海に沈められ(安明進元
工作員証言)、残された二人が北朝鮮に拉致された事件。北朝鮮は、「北朝鮮の
船が遭難していた3人を救助した。3人は北朝鮮で生きていくことを選び、昭二さ
んは1968年3月30日に北朝鮮で死亡」と主張。政府は平成19(2007)年11月6日、
福田康夫首相名で同事件は「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案に該
当」との見解を初めて示した。
西岡力・救う会会長代行
◆外雄さんの家族写真
この写真を見てください(寺越外雄さん、妻の韓福生さん、長男の金明哲さん、
長女の金明心さんの家族写真)。後ろに写っているのが寺越外雄さんです。1989
年1月に写されたものです。寺越友枝さんの二度目の訪朝の時に、友枝さんが預
り、兵庫県に住んでいる外雄さんの兄の文雄さんに届けられたものです。
このような写真がかなりたくさんあります。外雄さんが北朝鮮に連れて行かれ
向こうで結婚し子どもがいたということは、一部では知られていましたが、配布
資料(メールニュース・ホームページ22.02.24参照)にある通り、外雄さんは、
残念なことに肺癌で、94年9月5日に亡くなったとされますが、このことは私たち
は間違いないと思っています。北朝鮮の「遺骨」は信用できないものですが、肉
親が「亡くなった」という手紙を書いてきていますので。
その後、97年に家族会ができ、またその後救う会ができました。我々としても、
亡くなった人より生きている人の救出を考えていたこともあって、外雄さんの名
前をあまり表に出してこなかったのです。
◆寺越武志さんの戸籍回復
私は1991年に、『諸君!』という雑誌に拉致のことを書き、拉致被害者名簿13
人の中で、寺越昭二さん、外雄さん、武志さんのことも書きましたが、情報が錯
綜していていました。どこかに外雄さんが94年に死んだということが書かれたた
め、3人とも死んだものと思ってしまい、97年の時点では武志さんも死んだと思っ
ていました。それを荒木和博さんが『月刊正論』に書いたのです。それに対し、
母親の寺越友枝さんから抗議が来て、「武志は生きている!」と言われました。
これが友枝さんと我々との最初の出会いです。
そこで友枝さんと色々話をして、「生きているということであれば戸籍を回復
したらどうですか」ということになって、97年の6月に武志さんの戸籍は回復さ
れたのです。
その時、外雄さんの戸籍も一緒に回復されてもよかったのです。そして、今日、
法務省で話を聞いてよく分かったのですが、地上での管轄は警察ですが、漁業の
操業中に行方不明になった海難事故の場合の管轄は海上保安庁だそうです。海上
保安庁が、死体は上がっていないが、諸般の状況から死亡だと認定することが法
的になされ、それにもとづいて市区町村で戸籍の処理がなされるということです。
武志さんの戸籍回復は保安庁で行いました。本人が生きていて、テレビにも出
てきていますし、写真もありますので、生きている証拠があります。そこで、63
年に死んだのは間違いだったということで、97年時点で死亡取消し認定をし、そ
れに基づいて戸籍が回復しました。
しかし、97年時点で外雄さんは亡くなっていたので、死亡日の変更レベルのこ
とだったのです。海上保安庁から兵庫に住んでおられる外雄さんの兄の文雄さん
に電話がかかってきたそうです。ここには来ておられませんが、今日の要請には
来られました。そして、「外雄さんの戸籍回復をどうしますか」と言われたそう
です。
◆外雄さん家族の戸籍回復を
その時、今日、文雄さんが中井大臣にもおっしゃっていましたが、「自分とし
ては、もう死んでいる人の死亡日だけ変えることをしても、役所の人の手間をわ
ずらわすだけで申し訳ないのでやらなくていいですよと言ってしまった」と。し
かし、二人の子どもは日本の戸籍に載っていません。死亡日を変えなかったため
に、死亡の後に生まれたことになります。従って、戸籍回復のために出生届を出
そうとしても、死んだ人に子どもが生まれるわけはないということになってしま
うわけです。
友枝さんは97年の時点で名乗りを上げて、家族会に入ると言ってみたり、また
入らないと言ってみたり色々なことがありましたが、それ以外の寺越昭二さんの
家族の人たち、そして外雄さんの家族と長く文通をしていた文雄さんたちは、そ
れまで友枝さんの活動を見守っていたのです。
寺越家では、「3人の拉致被害者はいるけれど、生きているのは武志だけだ。
武志が一番いいようにするのが優先だ。北が拉致と認めていないのに、『拉致だ』
と、友枝さんと違うことを言うのは、武志にもしも危害が加えられることがあっ
てはと、我慢していた」というわけです。特に、昭二さんの家族に対しては、
「遺骨」といわれるものが来たけれど土しか入っていなかったので、言いたいこ
ともいっぱいあったわけですが、武志さん優先ということでずっと黙っておられ
たのです。
◆「拉致だ!」と言っても危害を加えられない
それから5年経って、2002年に小泉訪朝がありました。そこで金正日が拉致を
認めた。「拉致疑惑」が「拉致」になった。そして、「拉致していない」と言っ
ていた人のうち、5人が生きて帰ってきた。それを見て、「拉致だ!」と言って
も危害を加えられないことを目の前で見て、「武志のことはあるけれど、金正日
が拉致を認めたのだから他の家族が拉致と言っても武志に危害を加えることはな
い」と判断され、昭二さんの3人の子どもたちと文雄さんが家族会に入ると言わ
れたのです。それが2002年の10月。
その時、私はお会いして色々な話を聞きました。寺越家は11人兄弟で、武志さん
のお父さんが長男で、昭男さんたちのお父さんの昭二さんが次男、文雄さんが3
男、外雄さんが4男です。また昭二さんが拉致されたため、子ども3人のうち2人
は養子に行かれるなど色々複雑です。3人の被害者の中でも、一人昭二さんは、
北朝鮮は病死と言いますが、安明進証言ではその場で殺されたということで、昭
二さんに北朝鮮で会った人はいない。外雄さんは北朝鮮で日本人に会っています。
そして病死となっており、武志さんは健在とそれぞれの状況が違います。
◆墓に「遺骨」があるのか
そういう複雑な状況の中で、我々の運動の中で、昭二さんの子ども3人が名乗
り出られました。昭二さんの遺骨が本物なのかどこにあるのか、現場で殺された
という安明進証言は正しいのかどうか。北朝鮮はこの墓(写真)の中にあると言
うのですが、コンクリートが新しかったり、墓に刻まれている誕生日が違ってい
たり、本人が嘘の誕生日を北に教えるのかということもあって、「問題が起きた
から墓を作ったのではないか」という疑惑があります。
だから、墓に遺骨があるというのなら遺骨を返してくれ。DNA鑑定をして、本
人のものであれば、現場で殺されたのではなく、北朝鮮に上陸して病死したとい
う北の主張が正しいことになる。墓が空っぽであれば、安明進が言っているよう
に、現場で殺されて海に死体が投げ棄てられたという説が正しいことになる。真
相を究明してほしい。そうでなければ、国交正常化になった時に、寺越家は、遭
難を助けてもらったと、北朝鮮に感謝しなければならない。自分たちは北朝鮮に
感謝する立場なのか、お父さんが殺されたのかはっきりしてほしいと言われてき
ました。
外務省でも、今のアジア局長である斎木さんが参事官の時に何回か行き、「分
かりました」ということで、外務省も遺骨の返還問題を日朝交渉に出してくれま
したが、北朝鮮からは返事がありません。
◆武志さんは「私は拉致じゃない」
他方、友枝さんは今も訪朝して武志さんを経済的に支え、武志さんは、「自分
は拉致ではない」と言い続けています。武志さんの問題で、我々が貢献したと思っ
ていることが一つあります。97年、家族会ができ、続いて救う会ができ、「武志
さんも拉致だ、拉致だ」と言ったのです。それに対し、武志さんが記者会見して、
「私は拉致じゃない」、「北朝鮮はいい国だから残ったのだ」と言った。その後
武志さんは引っ越したのです。
それまでは、平壌の北にある亀城(クソン)市という地方都市に住んでおり、
旋盤工ということになっています。それが平壌に引っ越して、平壌市の職業総同
盟の副委員長になった。ものすごく広いマンションに住んで、そこで誕生パーティ
ができるくらい。そこに日本から政治家が行って、森元総理もそこに行って金容
淳(故人、元朝鮮労働党中央委秘書=対南担当)などと会っている。「北朝鮮の
方がいいから日本に連絡しなかった」と言っている人の家が貧しい家なら、嘘に
なってしまいます。「いい暮らしをしている」と言わせた以上は、いい暮らしを
見せなくてはならない。そして待遇が上がったのです。副委員長と言っても権限
はないと思いますが、階級に合った配給になります。
その頃は大飢饉の頃でした。その頃、配給のいい階級にあげることができたと
いうことは、向こうでは「迷惑だ」と口には言っていますが、我々の運動の成果
ではないかと内心思っていました。名前を出して訴えたらどうなるか。待遇が上
がったのです。
そして武志さんは2001年に、『人情の海』という長編手記を出したのです。そ
の中で、こう言っています。「出漁していたら変な船とぶつかって海に投げ出さ
れた。気がついたら北朝鮮のベッドで寝ていた」。ぶつかった船は北の船ではな
いことになっています。正体不明の船にぶつかって、その後、助けてくれたのが
北の船ということになっています。その時3人は、「北朝鮮は日本人を恨んでい
る。自分たちが日本人だと言ったら殺されるかもしれない。在日朝鮮人というこ
とにしよう」と言って、北朝鮮に嘘をついたことになっています。それが間違い
だった、と書かれています。なかなかうまくつじつまを合わせるものだと思いま
した。
それで、「日本のなんとか協議会とかなんとか連絡会という人たちが私のこと
を拉致と言っているけどそれは間違っている」と批判しています。「なんとか協
議会」というのは救う会全国協議会のことでしょうし、「なんとか連絡会」とい
うのは、被害者家族連絡会(家族会)のことでしょう。この2001年の本では、横
田めぐみさんの拉致も、田口八重子さんの拉致もでっちあげ、北がするわけがな
い、と書いてありますが、金正日がその1年後に拉致を認めてしまったので、武
志さんはその後、どう説明するか聞いてみたいところですが、無理やり書かされ
たということです。
◆拉致被害者なのに日本に手紙が出せたケース
しかし、この間、外雄さんのことはほとんど運動の中で取り上げてこなかった
のが実情です。この東京連続集会を友愛会館でやっていた時は、一人ひとりの被
害者家族が思い出を語るという集会をやってきましたが、外雄さんについてはや
らなかった。寺越事件は昭二さんのことだけをやり、写真パネルの中には一枚だ
け外雄さんの写真が入っていますが、外雄さんがどういう人だったのか、そして
外雄さんのことを語るのならば、外雄さんの家族を語らなくてはならなかったの
です。
外雄さんは向こうで結婚しています。しかし、あとで長瀬さん(救う会兵庫会
長)から説明がありますが、外雄さんは拉致被害者なのに日本に手紙が出せたと
いうケースです。87年からたくさん手紙が来ています。文雄さんのところに100
通くらい。その他にお姉さんのところにも送っています。外雄さんが亡くなった
後も、奥さんの韓福生(ハン・ボクセン)さんから、夫のお兄さんである文雄さ
んのところに来ています。一番新しいのは昨日来ました。だから文通ができてい
るのです。手紙のやり取りが自由にできているケースです。
余談になりますが、では87年に、なぜ北朝鮮が拉致被害者なのに手紙を許した
のだろうか。他の人はそんなことができないのに。それを考えると管理が違って
いたのではないか。60年代の寺越事件と、76年の金正日による現地化指令の後の
拉致とは、系統も担当も違うようです。
金正日の現地化指令により、テロに関わるような秘密に関わった人たちはいな
いことになっているので、手紙なんかもちろん書けないわけです。北朝鮮は関係
していないと言わなければならない。しかし、武志さんと外雄さんについては、
手紙を書かせた。結婚相手は、帰国在日朝鮮人です。前は、韓福生さんの家族の
方に手紙を書いていたのです。実家は大阪で、韓福生さんは1960年に帰国船で北
に帰ったのですが、その時、彼女のお母さんと妹は北に行ったけれども、お父さ
んとお姉さんは行かなかった。だから、お父さんとお姉さんは大阪に住んでいて、
今回上京された外雄さんのお兄さんの文雄さんは実家に行って何度も会っていま
す。
ところが、「今は縁を切った」、「だから関わり合いたくない」と言われたの
です。在日朝鮮人の中で一部にあるのですが、物の無心がたくさん来て、代も代
わってたくさんお金を送れなくなり、「もう関わらないことにした」という家庭
がかなりあります。多分、韓さんの家庭もそうだったのだろうと思います。そし
て、今は引っ越してしまって住所も分からないそうです。だから北から手紙も送
れない。送れなくなった頃に、外雄さんが、自分の実家に手紙を書くことが許さ
れたのです。
◆担当している保衛部員などが賄賂を取る
物が来ると、担当している保衛部員などが賄賂を取るのです。だから、担当者
も、在日朝鮮人扱いにして手紙を書かせ、物を取ろうとしたのです。そういう点
では、秘密を守ろうとする度合いが低かったということも言えると思います。と
にかく亡くなった後も手紙がどんどん来ていて、日本からずっと送られたお金で、
外雄家は大飢饉の時代を乗り切り、息子を大学までやれたのです。
息子の明哲さんは獣医大学を出て、最初専門学校の講師になられ、今は畜産技
師です。獣医師の資格を持ち、それを生かして働いているわけです。また、秘密
の場所ではなく、社会に出て働いています。そういう所に就職したり、大学に行っ
たり、大学で卒業論文を書いたりする度にお金が必要で、そういう手紙がずっと
来ていて、文雄さんのところでは弟の家族だし助けようということで、ずっと助
けてきたのです。
ただ、神戸大震災で文雄さんも被災者になってしまいました。文雄さんのうち
は理髪店ですが、お店もつぶれ、借金を返さなくてはならないということになっ
て、大震災の後からは頻繁にお金を送ったりすることは止められたそうです。そ
の後、明哲さんが結婚するという時にはお金を送ったりしていて、昨日来た手紙
では、「私たちから手紙が来るとぞっとするとおっしゃっているようだけど、し
かし助けてください」という趣旨のことが書いてありました。
そういう中で、長瀬さんが文雄さんの所に何回も通って、手紙もたくさん見せ
てもらい、段々分かってきたのは、この二人の子どもさんは、曽我さん、ジェン
キンズさんの二人の娘さんや蓮池さん、地村さんの子どもたちと同じで、日本国
籍を持ち、拉致被害者の子どもであるということです。
◆外雄さん家族は拉致被害者支援法の支援対象
今の拉致被害者支援法では、本人及びその直系家族を支援の対象としています。
小泉総理は、二度目の訪朝の時は、被害者が帰ってきているにもかかわらず総理
大臣が子どもたちを取戻しに行ったのです。総理が出て行くような位置づけが、
被害者の子どもたちであるわけです。
従って、外雄さんの二人の子どもたちも、寺越事件が拉致だと認定されれば、
被害者の子どもとして、日本の総理が出て行って、小泉さんがジェンキンズさん
を説得したのと同じように韓福生さんを説得して、「日本を信じてください」と
か言って連れてこなくてはならないという、同じ位置づけになるべき存在です。
まだ認定されていないということがありますが、どう見ても拉致です。
しかし、それをするためにも法的なことがまだ整っていない、戸籍が整備され
ていないのです。日本にいる人で一番近い人は、お兄さんの文雄さんですが、文
雄さんは今、糖尿病になられて、74歳で、いつ自分もお迎えが来るか分からない、
と。そういう中で、最後に甥と姪のためにできることは、日本国籍を回復させる
ことだ、そして政府に拉致被害者の家族としての支援を頼むことだということで
す。
それも色々迷われて、文雄さんのところはどうも、朝鮮総連が視野に入れてい
るようです。客商売をされていますから、お客さんの中にそういう人がいるよう
です。また、寺越家の内部も複雑で、友枝さんのところと、外の寺越家の家族の
人たちの間が微妙です。援助の問題で、友枝さんは、自分は「外雄さんに渡して
ね」と言われたものを外雄さんに渡したのに、寺越の他の親戚では私が武志にえ
こひいきをしたように言っている、と本に書いていますし、文雄さんの話を聞く
と、外雄さんの分として皆で集めたものも武志さんに行っているのじゃかないか、
と疑いがあったりして、「友枝さんを通さず直接送ってくれ」という手紙が来た
りしたこともあった。だから、文雄さんが外雄さんを支えていて、友枝さんが武
志さんを支えているということになっています。
文雄さんが色々なことで活動すると、友枝さんがまた色々なことをおっしゃる。
それは昭男さんたちのことについてもあったりしました。そういう中で、「もう
歳もとったので表に出るのは」と考えておられたのです。私も一度神戸に行き、
長瀬さんは何回も通っておられますが、甥と姪のことを文雄さんしか政府にきち
んと保護を頼む人はいない、と。甥と姪は家族に間違いないのだから政府は保護
すべき対象で、日本に帰ってくれば支援法に基づいて資金の提供も受けられる資
格の人です。
外雄さんは北朝鮮で亡くなっていますが、二人の子どもがいるんだということ
を政府及び世論に分かってもらわなくてはならない。そして、戸籍上も出生届を
出さなくてはならない。そういう話をして、去年の夏くらいにとの話もありまし
たが、様々な事情から延び延びになっていましたが、新政権になって、「拉致被
害者の認定を増やす」と中井大臣も色々なところでおっしゃっているので、であ
れば寺越事件は第一番目に来る筈だし、そのことをやりながら、外雄さんの二人
の子どものことも日本政府は目を離さないでくださいよ、と言いに行こうという
ことで、今日の陳情活動になったわけです。
◆政府に3項目要請
お配りした要請書では、要請事項が3つあります。
要請事項の1は、「政府は、寺越事件を北朝鮮による拉致事件と認定すること。
また、寺越外雄の家族を拉致被害者家族として位置づけること」です。
寺越さんたちはもう家族会に入っています。我々も拉致だと思って活動してい
ますが、政府がまだ認定していないのです。「寺越外雄の家族」というのは、金
明哲さん、金明心さん、そして配偶者である韓福生さんを被害者家族とすること。
そして、実は、明哲さんに子どもがいることが分かりました。拉致被害者の孫
がいるのです。まだ名前は分からないのですが、娘さんがいる。昨日来た手紙に
そのことが書いてありました。
2は、「法務省は、寺越文雄らが進めようとしている寺越外雄の戸籍上の死亡
日の変更、長男長女の戸籍作成作業を支援すること」、3は、「外務省は、北朝
鮮との交渉において寺越外雄の妻と子ども、そしてその配偶者及び直系子孫につ
いて、安全を確保し日本への帰国を求めること」で、これらの要請をしてきまし
た。
実は、この要請文を作っていて一番大変だったのは、外雄さんが北朝鮮にいる
ことは手紙等もあって分かるのですが、いつ結婚したのかが分からない。また、
いつ子どもが生まれたかも分からないのです。手紙は約100通あるのですが、誕
生日は書いてない。
◆婚姻の日も出生日も分からない
結婚については、『再会』という冊子、これは島崎譲さんという社会党の元国
会議員が、87年の友枝さんご夫妻の最初の訪朝に付いていって、帰ってきてから、
「北朝鮮に感謝する」と、「これは遭難救助事件だった」と言って作ったもので
す。寺越家にもお金を払えと言って買い上げさせられたいわく付きのものです。
1冊500円でした。これに結婚の年月日が書いてある。島崎さんは、生きていた外
雄さんから聞いたのでしょうが、子どもの生まれた日はこれには書いてない。
出生届を出すには、生まれた日付が分からないで日本の戸籍にのせることがで
きるのだろうか、と考えたわけです。だからと言って、北に電話して戸籍謄本を
送ってくれとか、外国人登録証を持ってきてくれと言えるような関係ではない。
北朝鮮は、「本人たちは誇らしい北朝鮮の国民で幸せに暮らしている。なぜ今、
日本国籍を作らなくてはならないのか」となりかねない。「右翼の反動どもがま
た陰謀をしている」となりかねない。本人たちがそれに協力すると、何か言われ
るかもしれない。そういう中で生年月日をどう特定するか。分からない中で、ど
ういうことができるのか陳情もし、法務省にも聞きにいきました。
昨日の夜まで、長瀬さんが、主要な手紙をスキャンして、それを東京に送って
きてみんなで読み、やっと生年までは特定できましたが、月日が分からない。89
年1月11日付けの外雄さんからの新年の手紙があり、「新しい年を迎え僕は50才、
妻は43才、明哲は18才、明心は15才に成りました」と書いてありました。89年で
すから、まだ外雄さんは生きておられたのです。外雄さんの出生日は分かってい
ます。1939年2月7日生まれです。そこから逆算しました。
満年齢なのか数えなのか、1月11日時点のものかどうかなど、色々と考えられ
ます。しかし、その前年の1月2日付けでは、「僕の長男明哲は今年17歳で9月に
中学校を卒業します」とあったり、94年12月には、「今年わが家では不祥事が」
あり、お父さんが死亡した、と明哲さんから手紙が来て、そこでは大学の5学年
とありました。北朝鮮では大学の5学年は満で21か22歳です。2001年に福生さん
から来た手紙では、「明哲もみなさんの援助のおかげで無事に結婚にゴールイン
致しました。今年は明心の番になりました。相手は中学校の先生で私の友達の息
子さんです(30才)。明心も27才でヨメに行く年はもうすぎたんですが、明哲の
ためおそくなりました」とありました。
これらを総合すると、福生さんが46年生れ、明哲さんが71年生れ、明心さんが
74年生れではないかと。現在の歳は、満で、福生さんが64歳、明哲さんが39歳、
明心さんが36歳となります。ちなみに武志さんは13歳で拉致され、今満60歳です。
また、『人情の海』という武志さんの手記の中で、外雄さんのことを書いてい
る部分があり、奥さん、長男長女の名前がありました。これは荒木信子さんが翻
訳したものがあり、ポクセン(福生)、ミョンチョル(明哲)、ミョンシム(明
心)と名前が合います。武志さんが「拉致はない」とした手記ですが、名前は同
じです。
実は、昨日夜まで資料を作っていたのですが、昨日北朝鮮から文雄さんに手紙
が来ました。これは偶然なのか。今までのような封筒ではなく、白い封筒でした。
文雄さんはこれを見て、朝鮮総連の人が自分たちの動きを知ってポストに入れた
のではないか」と疑ったそうですが、切手も消印も北朝鮮のものでした。我々の
資料では、「最近は手紙がない」と書いたのですが、あったことになります。そ
して、今も亀城市に住んでいます。武志さんは平壌に引越したわけですが、外雄
さんは亀城にいて、家族も亀城にいるようです。そして福生さんと、まだお嫁に
行っていない明心さんが一緒に住んでいます。明心さんは結婚したかもしれない
と思っていたのですが、それがうまくまとまらなかったようです。
そしてもう一つ、明哲さんに娘がいると書いてあります。ここで、拉致被害者
の孫の存在が明らかになったわけです。ここまでは昨日までの話です。
◆外雄さん家族は、戸籍回復がされていなくても「当然邦人保護の対象」
そして今日、3時に外務省、4時に法務省、5時10分に中井大臣にお会いしまし
た。外務省では、北東アジア課長に会いました。斎木局長は他用があり会えませ
んでしたが、この案件をよくご存知です。北朝鮮が出してきた昭二さんの「遺骨」
には土しかはいっていなかったこと、北朝鮮が出してきた昭二さんの「墓」だと
いう写真に刻まれている誕生日の日付が1日間違っていることなどです。北朝鮮
に上陸していれば、昭二さんが嘘をいう筈がありません。間違ったということは、
昭二さんは上陸していないと思われます。
外務省としてこの事実を認識し、交渉に出すようお願いしました。増元さんは
かなり厳しいことを言い、「寺越武志さんの帰国について交渉に出しているのか」
等言われました。私は、外雄さんの子どもがいることは写真や手紙で明らかだか
ら、北朝鮮で大混乱が起きた場合には戸籍回復がされていなくても、邦人保護の
観点から、明哲さんも明心さんも保護の対象にしてほしいと言ったら、「そのこ
とは当然そのように考えます」という話がありました。
その後、法務省民事局民事第一課に行き、戸籍関係の専門家の方々と実務的な
話をしました。既に、増元さんがるみ子さんの戸籍回復をした事例がありますが、
これは家庭裁判所でやりました。これも家庭裁判所でやらなければならないのか
な、と話しながら行ったのですが、先ほど話しましたように、海難事故なので海
上保安庁が管轄とのことでした。保安庁が死亡認定をし、それが市区町村に送ら
れて戸籍に反映されるそうです。るみ子さんの場合は、陸上での事件なのでまず
失踪届けが出て、家裁が何年か後に失踪宣告をするそうです。そして戸籍が処理
される。保安庁は行政ですから裁判所にいかなくていいようです。そして、死亡
取消認定をしてもらう。武志さんもやっていますし、63年後も生きていた証拠は
たくさんありますから簡単にできます。
しかし、94年に死亡したことは別で、死亡届を法務局に出すそうです。そして
子どもを籍に入れるには、まず婚姻届を出し、次に出生届を出す。婚姻関係にあ
る人から生まれたことを法務局が認めれば戸籍に載せる。しかし、客観的な証拠
が必要で一番いいのは公的な資料とのことです。
そこで我々が、「しかし、北朝鮮という国は書類も偽物を出します。死亡診断
書も偽物だった。そもそも人質にとられていて、そこで結婚して子どもができた
ので、本人が公的資料を取れる状況ではない。人質の子どもを保護する観点から
戸籍処理をしてほしい」とお願いしました。「北朝鮮が拉致をしているから政府
が対策本部を作っているのだから、書類がどうこうでは困る」と言いました。増
元さんが、「法務局が認めなかったら異議申し立てできるのか」と聞いたら、そ
れは裁判所に訴えればできるとのことでした。やってみないと分かりませんが、
近く、手続きを進めたいと思います。
◆「法務省と警察と相談して結論を出す」中井大臣
そして中井大臣に会いました。最初、文雄さんは緊張して、「私は床屋の親父
なのでこんな雲の上の人とは話せません」と言ったら、大臣が「床屋の親父でい
いですよ」と言ってくれたので、文雄さんがワーっと話し始めて、思いのたけを
かなり長く話していました。大臣の話はあまり多くなく、寺越事件の認定、二人
の子どもの国籍回復と保護の対象にしてほしいこと、また拉致問題全般について
民主党政権になってどこか変わったのか、今どうなっているのか、ということを
質問し、話を聞いてきました。
拉致認定と国籍回復については、法務省と警察と相談して結論を出しますとい
うことでした。法務大臣とは自分が折衝します、とのことでした。その他、金賢
姫のこともやっているということなどがありました。以上が今日の活動の報告で
す。
拉致被害者に子どもがいて、さらに孫までいるという状況です。もしかしても
う少ししたらヘギョンさんが結婚するかもしれない。子どもが生まれたら横田夫
妻のひ孫になります。そのくらい日数が経っているということです。特に寺越事
件は1963年ですから。
寺越昭男 もうすぐ半世紀になります。
西岡 次に、今回の資料整理を担っていただいた救う会兵庫の長瀬さんに補足を
してもらいます。
◆100通を越える手紙には「遭難救助」と書いてない
長瀬 今回、神戸の寺越文雄さんがもっておられる厖大な数の手紙や写真を整理
するお手伝いをしました救う会兵庫の長瀬猛です。寺越さんとのお付き合いはず
いぶん長いものになります。薄紙を重ねるように信頼関係を築いて、つい最近、
「そういうことであれば手紙を一切合財預けるから整理をしてほしい」というこ
とで、手紙をお預かりすることになりました。
手紙には色々なことが書いてあります。私が関心を持ったのは、拉致の原因が
どのように述べられているかという点です。100通を越える手紙の中に、遭難で
助けられたという箇所は、一箇所もありませんでした。拉致されたということも、
もちろん書いてありませんが、北朝鮮にとって決して都合が悪くない遭難救助が
一切書かれていないのです。
ちなみに、兄弟で上から3番目のお姉さんのところに始めて来た手紙は、「色
々な事情があって北朝鮮で今暮らしていて子どもがいる」というくだりかた始ま
ります。寺越家が訪朝することになり、外雄さんから見れば母方の親戚に当たる
方がとても尽力され、その方宛の手紙も何通かありました。そこに唯一、北朝鮮
に渡った理由が述べられています。
「金沢の人たち(友枝さん)や、社会党の島崎先生たちが言っていた。だいたい
その通りです」というくだりがあります。今回公開の対象にはしていません。こ
ういうことから、寺越事件というものは決して海難救助事件ではなかったという
ことを十分読み取ることができると思っています。
文雄さんが、非常に長い間苦労しながら、弟の家族を支えてこられたことが、
手紙の中に随所に出てきます。本当に切ない手紙です。
北朝鮮は、体制に関係ないことは案外ノーチェックです。昨日届いた手紙は、
文雄さんから公開のお許しをいただきました。これには外雄さんの家族の住所も
書かれています。文面を読ませていただきます。これは2月3日、つい最近書かれ
たものです。横田めぐみさんや有本恵子さんがいる北朝鮮から、拉致被害者の生
きる証として書かれたものです。
◆外雄さん家族会から「昨日届いた」手紙
(分かりにくい記述は一部訂正)
新年、2010年を迎えご家族のみなさんお元気ですか。お久しぶりにペンを取り
ました。
今日まで心の中に秘めていた事実を書こうと思います。私からの手紙を読むの
がぞっとするそうですが、ほんとうですか? はっきり言って今、私達の生活は
貴方らには想像もできないぐらいの“固難(苦難か?)の行軍”をしております。
もう10年も過ぎました。でも全国民が団結しその固難を貫ぬいて前進しておりま
す。親戚はもちろん、となり近所の人達と食べ物が互に助けあって生活してきま
した。
外雄さんもこの波にのって日本人ですが立派な生涯をささげてくれました。現
在まで生きていればきっと共和国英雄になったはずです。こちらで朝鮮統一に身
心をささげ国際主義戦士の模範を示したことでしょう。統一後には恋しい兄弟姉
妹のいる古里に帰ると、ひとみをかがやかしながら(話していた=救う会判読)
主人が想いうかびます。武志や明哲のでるまくではありません。
今はつらい苦しい“行軍”をしても2?3年後にはきっと豊かな朝鮮“強盛大国”
になった後、貴方達、親戚のみなさんに恩返しできるよう頑張って生きて行きな
さいと思って居ります。昔から恩は恩で返せとの言葉があるが、現在の私らには
それが出きないため、私からの手紙を見るのがぞっとすることでしょう。つらい
この気持ちを良解を望みます。
話が変りますが、(文雄さんの親戚の名前あり)さんも“ガン”のおそれがあ
ると手紙にありました。文雄さん恵子さんもみんなそれぞれに病気を持っている
ようですが、どんなに辛いことでしょう。お体に気をつけて健康でいることを願っ
て居ます。
その点、私も同じです。長年の胃カタールから3年前に中国製のアスピリンが
胃にくっついて6ヶ月間の治療でよくなったと思ったんですが悪化して、胃液が
無酸で、去年の春の診断で、“胃ガン”ときき、一時は目の前がまっ暗で、淋し
さのあまりなきくずれました。後、“ガン”でも良悪があるそうで、私の場合は
良の方だと言っています。
死を決心して人間はこわい物はありません。いろいろと心配ばかりおかけして
報いることが出来ないことが胸につかえて真に申し訳有りません。私達がみなさ
んと立場が逆だったらどうしたか、最高に尽くすことが出きたかと自分自身に問
うてもみました……。
私の一生の希望は、親戚のみなさんにお逢いして気の気く(向く?)まで話合っ
て、だき合って、身内のあたたかい情を味うことでした。それで墓参りも来てく
れ、訪朝してくれと書くようになったんです。
その希望がかなえられないユメで終ってしまいました。明哲は幸せに嫁や娘が
いる家庭であるが、明心はいまだに一人。私ひとりを当てにしてだれも知人もな
い、たった一人ぼっちになるのが可哀想で、目をつぶることができません。夜は
夜でねむることが出きません。明哲の嫁さんは主人の法事にもこない。ただ武志
の家には行くそうです。
友枝はなぜ、私や外雄さんをにくむのか? 私が寺越家に何か悪いことでもし
たのか? 今は武志も他人行儀で口もききません。
又、日本でもみなさん方も、私らがなにか物でもほしさに手紙するんじゃない
かと、当てにするな、もう最後だと淋しい手紙ばかりで、私は死んでも目をつぶ
ることが出きません。明心には父さんの墓を家の前の山へうつして、私の墓もそ
こに建ててくれとたのんでいます。
文雄兄さん、恵子さん、お願いです。私がだめなら明心だけでも暖かい春がきっ
とおとずれるとお手紙一通でもやって下さい。
私と明心は、一生懸命働いて居ります。最後の血が一滴になるまで働いていく
つもりです。のらくらしてたよりにしていると考えないでください。
まだまだ書きたい事が沢山ありますが、心がへんに興奮してドキドキして手が
ふるえ書くことができません。(文雄さんの親戚の名前あり)には生前、外雄さ
んが口ぐせのように言っていました。ところがこの度“せきずい”との怖い病気
にかかってなんともいうことができません。どうかよろしく伝えてください。
くれぐれも体に気をつけて末永く幸福をお祈り致しつつペンを置きます。さよ
うなら。命がつづくかぎり手紙します。
◆「ズボンの裾をめくりました」
以上が、昨日届いた北朝鮮の韓福生さんからの手紙です。いずれももっと切な
いことばかり書いてある手紙が文雄さんの所にありました。
文雄さんは、現金を送ってもほとんど手元に残らないことが分かったので、わ
ざとズボンの裾を短くあげて、「ズボンの裾が短いかもしれないから必ず直すよ
うに」と書いて、そこに現金を挟み込んでいたという話を聞きました。また、調
査すると、「ズボンの裾をめくりました」という手紙も出てきます。これはお話
と一致してきます。情報が少ない中で、文雄さんやご家族が支えておられたんだ
なと、手紙を拝見してつくづく思いました。
寺越さんの件では、これからもお手伝いをしていこうと思っております。これ
まで私が関わった他の拉致事件に比べて、寺越事件で最も特徴的なのは、思いが
生で聞こえるほど情報量が多いということです。手紙や写真がこんなに多いのは
初めてです。この貴重な資料をしっかりまとめて実のあるものにまとめていかな
ければならないと決意を新たにした次第です。
◆「地獄のような生活から救い出」して
寺越昭男(拉致被害者寺越昭二さん長男)
今日は遅くまでありがとうございます。拉致問題は、みなさんのお力を借りて
被害者を取戻すことです。私たちだけでは太刀打ちできないという思いがあり、
国民の世論、そして家族会・救う会の力で解決していくしかありません。報道の
方を含め、今後とも宜しく応援してくださいますようお願い致します。
内田美津夫(拉致被害者寺越昭二さん三男)
私たちが声を上げ、東京に来た時に、寺越友枝さんが石川の新聞で誹謗・中傷
を行いました。それを東京で聞き、「弱ったなあ」と思ったのですが、地元に帰
る車の中で、兄弟三人で話合いました。「どんなに誹謗・中傷されても、武志と
友枝さんのことについては我々は言わないでおこう。我々子ども三人は、我々の
父親のことだけを思って活動していこう」。そういうことを三人で決めたことを
思い出します。そのことで8年間やってきましたが、外雄さんの家族については
何も活動してこなかったことを、今、悔やんでいます。手紙にもありますように、
北の生活は本当に大変だということが、皆さんにも分かっていただけたと思いま
す。北の国民も大変ですが、拉致被害者も苦しい生活を送っているのはまちがい
ないと思っています。一刻も早く、日本の国が動いて拉致被害者を取戻し、地獄
のような生活から救い出すことをやってほしいと思います。寺越の親族が必死に
なってまず拉致認定をしてもらい、「被害者だから早く返せ」という活動が実現
できるようやっていきたいと思っていますので、ご支援宜しくお願いいたします。
以上
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