救う会全国協議会

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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

25.9.16国民大集会全記録3(2013/09/20)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2013.09.20)

※この大集会の模様は救う会のホームページから動画でも見ることができます。


西岡 総理の決意を聞き、担当大臣の報告を聞くことができました。今日の集会
のもう一つの目玉は、35年前の夏に何が起きていたか、ということです。資料映
像を準備しました。どうぞご覧になりながら話を聞いてください。

西岡 今から35年前、1978年の夏に多くの日本人が拉致されました。政府認定17
人のうち10人が、6月から8月にかけて拉致され、8月には袋に入れられたまま逃
げ出した拉致未遂事件も起きました。拉致は全世界で起きていますが、1978年に
は日本以外でも10か国29人が拉致されています。

 一体、あの時、何が起きていたのか。帰国した被害者の証言と現地調査から、
ジャーナリストで救う会拉致の全貌プロジェクト委員、特定失踪者問題調査会理
事の惠谷治さんとともに検証していきます。惠谷さん宜しくお願いいたします。

惠谷 どうぞ宜しくお願い致します(拍手)。

西岡 拉致には3類型があることがこれまでの調査で明らかになってきました。
遭遇拉致、人定拉致、条件拉致です。

惠谷 遭遇拉致は、北朝鮮の工作員が日本に潜入して、あるいは潜入中に目撃さ
れた場合、その人を証拠隠滅、秘密維持のために予定外で拉致するパターンです。
その典型的なものは、1963年、石川県で寺越さん3人が拉致された事件がありま
す。

 人定拉致の人定というのは、事前に調査を行って拉致対象者を絞り込み、決定
し、その対象者を海岸、あるいは国外におびき出して拉致をする。1987年の場合
は、田中実さん、田口八重子さん。この方々は事前に調査されて特定されたケー
スです。

 条件拉致の条件というのは、もともと計画され、指令が出る場合に、例えば若
い女性とか、若いカップルという条件を与え、人物は特定しない。その任務を負っ
て日本に潜入する。そこで条件に見合う対象者を探して、暴力的に拉致をして連
れ去るケースです。

【7/07小浜事件】

西岡 それでは戸別の事件に即して見ていきましょう。今回は条件拉致を中心に
検証します。まず1978年7月7日福井県の事件です。

惠谷 これは地村保志さんと富貴恵さんが拉致された事件です。展望台を登る坂
道、これが展望台、その屋上に二人はいました。だいたい夜8時くらい。当時は
屋上にベンチがあり、そこに二人は座って話をしているところを、いきなり暴力
的に拉致をされた。

 この屋上から海を望む展望台には、1階にも二人アベックがいました。屋上か
ら降りてくる階段。この右手に車を止めていました。当時は近くにユースホステ
ルがあり、これと車道をつなぐ細い道が当時ありました。現在は廃道ですが、実
行犯たちはおそらく二人をかついで、この急斜面を降りたのではないかと推定さ
れています。

 これは小浜市の真珠浜と呼ばれる海岸で、一の浜、二の浜、三の浜とあります。
二の浜から見た映像の向こうに蒼島という無人島があります。地元の方々に聞く
と、この蒼島にはどこから見ても死角になる船泊まりがあり、おそらく工作子船
は小浜湾に入ってこの蒼島に泊めたのではないかと推定されます。

 浜の人の姿がこれだけ小さく見えますので、車道から浜を見ても、ゴムボート
を岩やしげみに隠したとしても発見、あるいは確認することができないと思われ
ます。

西岡 私はこの8月に小浜に行き、地村保志さん、富貴恵さんと会って、当時の
状況を詳しく聞いてきました。地村さんたちはその年の3月に知人に紹介されて
交際を始め、あの展望台でのデートは、七夕のあの日が初めてでした。

 富貴恵さんを自宅に送るその車の中で、七夕だから星を見にいこうと思い立っ
て、偶然展望台に寄ったのです。そのことは誰も知りませんでした。展望台の屋
上に座っていると、階段の下におかしな4人の男がいるのが見え、少し嫌な気持
になったといいます。

 何とその中の一人が原敕晁さん拉致の実行犯辛光洙(シン・ガンス)でした。
後ろから襲われ、口を塞がれ、手を後ろに拘束され、頭から袋をかぶされました。
そして肩にかつがれて斜面を降りました。一歩一歩降りる時、犯人の方がお腹に
めり込んで痛かったと富貴恵さんは語っています。

 海岸でゴムボートに乗せられ、工作子船に乗り換え、沖に出て工作母船に乗り
換えました。保志さんは母船の船室に入れられる時まで袋のままでした。ゴムボー
トから子船に乗り換えるとき、たぶん放られたのでしょう、海に捨てられて殺さ
れると思ったと話しています。

 富貴恵さんは、海岸で袋から出されています。しかし、保志さんを一回も見て
いません。気配も感じていません。北朝鮮に着いたとき、お互いに相手は日本に
いると信じこまされていたのです。ゴムボートは大きなものではありません。袋
から出されていたのですから、同じボートに乗っていれば富貴恵さんは保志さん
に気がついているはずです。ゴムボートが2隻あって、保志さんは一の浜、富貴
恵さんは二の浜に下ろされた可能性があります。

 惠谷さん、どう思いますか。

惠谷 通常ゴムボートは一隻積んでいますが、二隻のケースもあります。保志さ
んは一の浜の景観を知っていますので、保志さんは一の浜、富貴恵さんは二の浜
からゴムボートで、工作子船が待っている蒼島まで移動。それから工作子船に移
されて、小浜から沖合いに待つ工作母船に輸送されたと考えられます。

【7/31柏崎事件】

西岡 次に、7月31日に新潟県で起きた事件です。

惠谷 これは柏崎市の中央海岸の入口で、堤防のある左手が遊歩道になっていま
す。この中央海岸は非常に長くて、蓮池薫さん、祐木子さんはなるべく人のいな
い所に、というのもここはデートスポットで有名ですから、歩いていったそうで
す。

 そこで、「煙草の火を貸してくれ」と言われて、いきなり目を殴られ、防風林
の堤防があるくぼ地に押さえ込まれたそうです。この先に鯖白(さばしろ)川と
いう川があり、これが河口です。

 通常、河口が潜入する工作員の接線になります。在日工作員と潜入する工作員
がランデブーします。そこにおそらくゴムボートを隠したと思われます。これは
柏崎市の地図ですが、当時ここにショッピングセンターがありました。二人はこ
のラインを歩いて、ここが当時は市立図書館で現在はふるさと館となっています。
蓮池さんはそこに自転車を置きました。

 そしてこのルートで先ほどの海岸を歩いていきます。そうすると後ろから気配
を感じたという証言があります。そして暴力的に拉致された。先ほどの河口はこ
のあたりにあります。ここに止めていたゴムボートをここまで運んだ。

 蓮池さんたちはしばらくくぼ地に止めおかれ、暗くなってボートがきて連れて
いかれたと証言しています。

西岡 蓮池さんたちも4人の男に襲われています。そのうち1人が小住健蔵事件
の犯人、崔スンチョルです。崔ら4人は三日前に柏崎に潜入し、海岸で拉致対象
者を探していました。崔以外の3人は慣れていなかったので度胸試しに食堂でカ
レーライスを食べたなどと言っています。

 蓮池さんは次のように証言しています。

「われわれは市内で待ち合わせて海岸に行ったわけなんですけど、海岸に行くと
いうことは、われわれ自身も事前に決めていたわけでもないし、家族も知らない。
ですから、そこに入ってきた人間の誰かを拉致して行こうという拉致だったと思
います」(NHKラジオ深夜便 平成25年2月17日午前4時台放送)。

「我々でなくとも、誰か適当な人であればよかった。これは、北朝鮮に行った後
で聞いた話ですが、先に適当な人がいたが、作戦を起こそうという時に、一升瓶
を持ったおじさんが近付いてきて、断念せざるを得なかった。それで、この日は
ダメかと思っていた時に、お前たちが来たんだ」(越後ジャーナル社 ホームペー
ジ掲載の蓮池薫さん加茂市で講演要旨)と聞かされたということです。

 蓮池さんたちも、地村さんたちと同じように口をふさがれ、手足を縛られ、袋
を被されています。ただ、祐木子さんは目隠しをされただけで袋は被されていま
せん。ゴムボートでお互いの存在は分からないように移送されている点も同じで
す。

西岡 次に8月12日鹿児島の事件(市川修一さん、増元るみ子さん拉致事件)で
す。

惠谷 これは吹上浜に至る小路ですが、この手前にロータリーがあり、そこに車
を止めています。現在こういう(拉致に関し情報を求める)ボードが立っていま
す。あの小路を抜けると海岸に出ます。この堤防は防風林も兼ねています。ここ
が現場になった吹上浜の海岸です。 非常に長くて海亀の産卵地としても知られ
ています。ここでは過去にしばしば怪しい男たちが目撃されています。

 ここに島があるんですが、久多(くた)島と呼びます。海岸線から5マイルで
すから、8.5キロくらいの所です。その向こうに見えるのは甑(こしき)島です。

 通常工作母船は、領海線の外、だいたい沖合い20キロのところにいます。そこ
から子船を出して侵入してきます。その時の目印になったんだろうと思われます。
子船からゴムボートを出すのは、だいたい2キロくらいの所です。ですから、ゴ
ムボートを送り出した後、おそらくこの島影に停泊させていたのではないかと私
は考えています。

 これは吹上浜の南にある新川の河口付近です。先ほども言いましたが、潜入す
る工作員と待ち構える在日、あるいは先乗り工作員の接線場所に河口がよく使わ
れます。その一つがこの新川です。まだはっきりしたことは分かりませんが、ひょっ
とするとこのあたりにゴムボートを用意しておいて、拉致した後、ゴムボートで
市川さんたちを拉致したと考えています。

西岡 犯人などについては、市川さん、増元さんが帰ってきていないので分かり
ませんが、この日二人は初めてのドライブをしたんです。ですから偶然海岸にき
たことになります。

【8/12佐渡事件】

西岡 同じ8月12日に、新潟県佐渡でも拉致がありました。曽我ひとみさんがそ
の時の様子を詳しく語ってくれました(2012年10月の東京連続集会でのビデオ映
像)。

曽我ひとみ 私は、1978年北朝鮮に拉致されました。ちょうどお盆の前の8月12
日の土曜日でした。私は看護師の仕事をしながら、決まって土曜日には家に帰り、
日曜日の午後にまた寮に帰るという生活が続いていました。

 ちょうどその日も土曜日で、午後家に帰りました。お盆前ということで、母が
少し足りないものがあるので買い物に出かけようということになりました。行き
は病院であった話などを色々しながら、楽しく店まで着きまして、店で買い物を
終えてまた家に変える途中のことでした。

 歩道を歩いていたんですが、夏場ですので、7時を過ぎてもまだぼんやりと明
るいくらいの時間帯でした。母と話をしながら歩いていましたら、何かちょっと
後ろの方から人の気配を感じまして、一度後ろを振り向きました。

 そうしたところ、男の人が三人、縦並びじゃなく、横並びで、まっすぐ私たち
のあとをゆっくりとついてくるのが見えました。「なんか変な男の人たちが後ろ
から付いてくるね」と母と話しながら、「気味が悪いから早く帰ろう」と、少し
足早に歩き始めてしばらくした時でした。

 後ろから三人の男の人が急に駆け寄ってきまして、道端にある植え込みの中に
私と母親を引きずりこみました。その時私は口をふさがれて、袋をかぶされまし
た。一緒にいた母親は、そのとき以来一度も声を聞くこともなく、姿を見ること
も今までありません。本当に夢のような話で、自分自身もよく分からないところ
がいっぱいあります。

 その後ですが、私は袋に入れられたまま小さな船のところまで行きました。そ
の船の上にしばらくいましたが、ちょっと離れた所で日本語を話している(女性
の)声が聞こえてきました。その日本語は佐渡の人が話している佐渡弁ではなく、
日本人でもない、ちょっと発音が違う、そんな印象を受けています。

惠谷 これは私が、事件後25年後8月12日午後7時に撮った写真です。この左手に
あるのが逸見商店。お二人が買い物をした。お店がある向こう側の歩道を買い物
を終えた二人は帰っていった。

西岡 明るさは同じということですね。

惠谷 明るさは、車のヘッドライトもこういう感じで照らされる。ここは非常に
長い一本道です。ですから車が来ると、遠くからすぐ分かります。

 ここが二人が連れてこられた国府川(こうのがわ)の川岸で、当時は葦が生い
繁っていました。この岸に不審な船が泊まっていたという目撃情報もあります。
ここが国府川の河口で、向こうに真野湾が広がります。その向こうに工作母船が
あったと思われます。

西岡 皆さんがお持ちの本日のちらしの裏に、先ほどの曽我さんの証言を文字に
してあります。後で見てください。

 この日、曽我ひとみさんがお母さんと買い物に出かけたのも偶然でした。実は
妹さんとどちらが一緒に行くか兄弟げんかをしていたといいます。

 彼女たちは3人の男に襲われ、口をふさがれ、手足を縛られ、袋を被せられて、
川岸の船に乗せられました。

 そのとき、母国語でないような日本語が自分に対して語られたのでないような、
しかし近くで聞こえたと言います。多分、金ミョンスクがお母さんに語ったので
はないか。日本語を語る必要は工作員同士ではないんです。

 その日本語は曽我さんを拉致して平壌まで一緒に連れていった女工作員金ミョ
ンスクの声でした。後で曽我さんも分かります。つまり、ここでも3人の男と1人
の工作員の4人組が犯人です。

 曽我さんは道で襲われた後、お母さんのことは一切分からないと語っています
が、これも他の事件と同じです。つまり別々に連れていくやり方を最初から狙っ
ていた。そういう技術を持っていたんです。曽我ミヨシさんも絶対に拉致されて
いることが分かります。

 曽我さんは最初に乗せられた船は感触が木だったと語っています。また乗り換
えは1回だけとも語っています。これをどう見ますか。

惠谷 通常、ゴムボートで沖合いに出ますが、ここは国府川で、不審な船が当時
目撃されています。曽我さんも木の感触が鮮明です。ですから、佐渡のケースは
他と違って、特別なケースだったと思います。ゴムボートについては後ほど詳し
く説明します。

【富山未遂事件】

西岡 曽我さん事件の3日後、富山で拉致未遂事件がありました。海岸をデート
中のカップルが4人の男に襲われ、口をゴム製の猿ぐつわでふさがれ、手足を拘
束され、袋を被せられました。

 夕日の時間だったからか、暗くなるまで近くの林の中に袋のまま置かれていま
した。ゴムボートを取りに行っていたのではないかと思われます。

 2人はかなり距離をとって置かれていました。つまりお互いの存在を知らせな
いようにされていたのです。

 ところが、犬の鳴き声が聞こえたら周囲から人の気配がなくなり、2人は別々
に、違う民家に逃げ込んで助かりました。

 現場には、ゴム製猿ぐつわ、真ちゅうの手錠、袋、手ぬぐいが遺留品として残
されていました。この猿ぐつわをICPO(国際刑事警察機構)を通して韓国政府に
照会したところ、「韓国に不法侵入して、死亡した北朝鮮工作員が所持していた
ものと極めて似ている」という回答が返ってきたと、当時の警察庁幹部が「読売
新聞」(2002年12月20日夕刊)のインタビューに答えています。
【5件の共通点】

西岡 以上、35年前の夏、七夕から終戦記念日までの約1か月に4件8人が拉致さ
れ、1件2人の拉致未遂事件がありました。蓮池さん拉致の犯人、崔スンチョルは
対外情報調査部の姜海龍(カン・ヘリョン)副部長から「早急に日本人を連れて
こい」と指令を受けたと言われています。その指令を受けて急ぎ行われたのが、
これらの拉致だったと思われます。5件の拉致の共通点を見ていきます。
対象は「海岸近くに偶然居合わせたカップル」です。惠谷さんどうですか。

惠谷 曽我さんを除いては未遂を含めカップルが4件狙われています。曽我さん
の場合も、お母さんはズボンをはかれていて、工作員がカップルと見誤った可能
性も考えられます。

西岡 曽我ひとみさんはワンピースを着ていたんですね。そして後ろから襲われ
た。次に実行犯です。実行犯は「4人組、工作員1人と戦闘員3人」です。

惠谷 実行犯は、朝鮮労働党調査部の工作員が現場指揮官になり、朝鮮労働党作
戦部の戦闘員、いわば実行部隊の3人、この4人でいずれの事件にも関わっている
ことが判明しました。

西岡 戦闘員というのは、安明進(アン・ミョンジン)さんがまさにそうですよ
ね。彼は拉致の訓練を受けたと言っていました。次に手口です。
手口は「口をふさぎ、手足を縛り、袋詰め」です。

惠谷 この手口は先ほどの猿ぐつわもありますが、タオルのケース、あるいはガ
ムテープのケース様々あります。そして身体の自由を奪うために、手は基本的に
後手で縛る、同時に足も縛る。そして頭の上からすっぽりと袋をかぶせるという
やり方です。

西岡 次に管理です。
管理は「互いの存在を知らせず隔離」です。だから曽我ひとみさんはお母さんの
ことが分からなかったわけです。

惠谷 この隔離というのは大変重要な要素を含んでいます。先ほど言いましたよ
うに、条件拉致は、例えば「カップルを連れてこい」という指令が出ます。カッ
プルを襲った瞬間から二人を引き離します。袋に入れるのも、相手を見えなくす
る、相手の情報を与えなくします。そうすると誰しも不安に陥ります。

 そして船に乗せますが、その間も隔離して会わせません。北朝鮮に上陸します。
そこでも会わせません。当然不安になりますから、相手はどうしたと聞くと、
「日本にいるので心配するな」という言い訳で1年が過ぎ、2年が過ぎます。

 そうして突然に二人を再会させます。心配だった相手が目の前にいると、誰し
も大安心します。そこで、「これは金正日将軍様の配慮である」。そして北朝鮮
に縛り付けるわけです。その心理効果を金正日は考えた上で、カップルの隔離を
襲った瞬間から実行しているわけです。

西岡 計画的だったわけですね。結婚して子どもを産ませるという目的があった
わけですが、曽我さんの場合は親子ですから、ひとみさんはジェンキンスさんと
結婚したわけで、お母さんと会わされることは残念ながらなかったということで
はなかったかと思っています。最後に移送です。

 移送は「1、2回乗り換えさせて工作母船へ」です。通常工作員が潜入してくる
場合は、いわゆる3段階、工作母船、工作子船、ゴムボートか水中スクーターが
一般的です。

 こちら(会場に8メートルの写真パネルを展示)を見てください。これは1990
年の10月に、福井県美浜町松原海岸に漂着した北朝鮮の工作子船です。約6割の
大きさの写真です。今回、福井県警が持っていたこの写真パネルを、福井県警が
わざわざ我々のために提供し、持ってきてくださいました。

 なかなか生々しいものです。このパネルと映像を見て、惠谷さんから説明をし
てもらいます。

惠谷 これがこの工作子船に積んでいたゴムボートですが、実は日本製です。二
つのうち白い小さな船が工作子船です。パネルと同じものです。その右手に巨大
な船がありますが、これが工作母船です。船尾に観音開きの格納庫があります。
ここに工作子船を格納していたと思われます。

 これは工作母船の先端から見たもので、ここがブリッジです。工作母船が北朝
鮮を出発して領海に入らないよう、その手前、約20キロくらいの沖合いに止めま
す。そして観音開きを開けて子船を出します。子船の上部構造は、漁船に偽装す
るため、この場合イカ釣り漁船ですがランプをたくさん付けています。ところが
母船の格納庫は狭いものですから、子船を海上に出した後、漁船に偽装します。
それから(領海に)侵入するわけです。

 (写真パネル・映像の)工作子船の船首部分に第一船室と名づけた小さな空間
があります。ここが第二船室、ここが燃料室、ここにレーダーがあります。ここ
が操舵室。(子船の)この構造物は、通常は取り外してここに乗せている筈です。
この(上に突出した)構造物は、下にもぐらせることができます。

西岡 拉致被害者が袋に入れられて、子船で運ばれたとするとどこに入れられて
いたと思いますか。

惠谷 まず第一船室。これは非常に狭く、こちらは少し広いんですが、近すぎる
から、第一船室と操舵室の脇に袋詰めで放り投げておいたと思います。この子船
はアメリカ製のエンジンを3つ付けています。3つをフルに動かし、条件がよけれ
ば(時速)100キロでます。

 この母船、子船、ゴムボートの1?3段階は、北から潜入する流れです。そして
拉致をしたら逆のコースで帰っていきます。1978年当時は北朝鮮製の材質の悪い
ゴムボートだったと思いますが、その後日本から輸入して、いいものを積むよう
になりました。

西岡 先ほど映像に出た、錆びた母船や子船は、実は奄美沖で自沈して引揚げら
れたものです。今、横浜(海上保安資料館横浜館<工作船展示館>)に展示され
ていますので、是非ごらんになっていただければと思います。

 35年前の夏、多くの日本人が、展望台、海岸、道路などで突然襲われ、口をふ
さがれ、手足を縛られ、袋を被せられたまま、ゴムボート、工作子船、工作母船
で、無理矢理拉致されていきました。横田早紀江さんがよくおっしゃる「畑から
大根を次々抜いていくような拉致」です。

 地村さんはゴムボートから子船に乗り換えるとき、「海に捨てられて殺される」
と戦慄したと言います。被害者は思い出すのも嫌なことです。

 それでも曽我ひとみさんは繰り返し、拉致された状況を語り続けています。お
母さんが心配だからです。

 拉致は外交問題、政治課題であるよりも、まず犯罪です。許しがたい国家犯罪
です。被害者が味わった怖さを思い、いまだに彼らを救い出せない悔しさで一杯
になります。なぜ、わが国がこのようなことを防げなかったのか、どうしてその
後、今に至るまで被害者を助けられないのかと強く思います。
その悔しさを共有しつつ、報告を終わります。惠谷さん、ありがとうございました(拍手)。

西岡 この台風の中、遅れてかけつけてくださいました国家議員の先生方をご紹
介します。

拉致議連副会長、参議院議員 衛藤晟一先生(拍手、以下同じ)
拉致議連事務局長代理 笠浩史先生
衆議院議員 小田原潔先生

ありがとうございました。

以上

(4につづく)




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