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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

曽我ひとみさんの「母への思い」?8/7新潟集会(2013/08/12)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2013.08.12)

8月7日、新潟市で、「曽我ミヨシさん、横田めぐみさん等すべての拉致被害
者の早期帰国を求める県民集会」が、救う会新潟、家族会・救う会、新潟県、新
潟市、佐渡市の主催で開催された。
 家族会から横田早紀江さん、曽我ひとみさんが、救う会から西岡力会長が、特
定失踪者家族から大沢昭一さんが参加した。

 以下は、曽我ひとみさんが当日訴えた、「母への思い」である。

■曽我ひとみさんの「母への思い」?8/7新潟集会

 母への思い

曽我ひとみ

 私が日本に帰国してから早いもので11年になります。口にするのも嫌なので
すが、拉致されて35年になります。あの忌(い)まわしい8月12日がもうすぐ
やってきます。そして、母と引き裂かれて35年という長い月日が流れたという
ことでもあります。

 帰国に先立ち、日本政府関係者が私の調査に訪れました。流れた歳月は残酷で
もありました。調査団が持ってきた母の写真を見せられ「誰ですか?」と聞き返
していました。「かあちゃん」だと言えなかったのです。心の中にはいつも浮か
んでくる母の顔があるのに、写真を見せられるとまるで他人が写っているとしか
思えなかったのです。

 あんなに会いたいと願っていた母の顔さえ忘れていたなんて、言葉に表すこと
もできないほどのショックを受けました。そしてさらに追い打ちをかけるのです。
調査団の中の1人が「佐渡にお母さんはいません」と言うのです。二重の衝撃に、
そのあとの調査内容はぼんやりと聞いていたように思います。そして、やはりそ
れは現実であると思い知らされました。羽田空港に着き、タラップを降りながら、
もしかしたら迎えにきてくれているかもしれないと僅(わず)かな望みを抱いてい
た。だけど、やっぱり母はどこにもいませんでした。

 妹もきっぱりと「かあちゃんはいない」と言うのです。辛い現実をつきつけら
れたという思いと、それを受け入れなければならないのだと自分に言い聞かせな
がら、やっぱり否定する自分がいて、その狭(はざ)間(ま)での葛藤(かっとう)は
苦しいだけだったことを思い出します。

 北朝鮮での生活が始まったばかりのころは、とにかく生きていなければ、生き
てさえいればいつか母に会える。そして、故郷の佐渡へ帰るチャンスがくる、と
必死に生きるために組織の言うことを何でも聞いてきました。生きるための「言
葉」、生きるための「知恵」を身につけ、生きるための「食事」をしました。そ
して、北での生活に慣れ精神的にも余裕ができたころ、やっと母のことを気にか
けてやることができました。

 精神的な余裕ができるまでなどと言いましたが、決して母のことを忘れていた
のではないのです。ただ、自分が生きることに必死になっていた時だったので、
1日中母の事ばかりを考えていられなかったのも事実でした。けれど、一人になっ
た時や寝る前は「どうしているのかなぁ」と母の顔を思い出しては悲しくなり、
両手で自分の体をぎゅっと抱きしめて母に会いたい気持ちを抑えていました。

 そんな時、決まって思い出すのは、唯一母から買ってもらった腕時計でした。
今も腕にはめているこの時計は、まさしく母そのものです。今現在に至るまで私
と母を繋(つな)ぐ形あるものとして存在しているのです。私が何かにくじけそう
になると叱ったり励ましてくれる宝物だったのです。

 なぜこのような男物を選んだのかというと、当時病院で働いていた私は、患者
さんの脈を計ったりするのに便利だと考え、よく見えるようにと大きな時計にし
たのです。北朝鮮で生活した24年間、肌身離さず、大切にしてきました。使っ
ているうちに、あっちこっち傷がついたり電池切れで止まったりもしました。そ
のたびに母に何かあったのではないかと心配したりもしました。

 何度か修理を繰り返し使ってきましたが、最後には部品もないということから
日本に帰ってくるまで止まったままだったのです。さすがに打つ手がなくなった
その時は、母に大変なことが起こったのではないかと、胸が締め付けられる時間
を過ごしたことを思い出します。心配なことがあると、決まってこの時計に「何
事もなく無事でありますように」と祈ったのです。

 何のへんてつもない時計ですが、帰国からしばらくしてこの時計のいわれを聞
いた近所の人から、「あんたが、看護婦になるってすごく嬉しそうだった」、
「ひとみには、いい看護婦になってもらいたい」と、ことあるごとに話していた
よ、と聞きました。

 そして、ふと思い出したのです。そういえば、めったに仕事を休むことのなかっ
た母が、私の戴帽式には出席してくれたなぁとか、切り詰めた生活をしていたは
ずなのに、就職祝いだからと好きな物を買ってやるから何でも言え、とか。

 よほど私の就職が嬉しかったようです。確かに思い返してみれば、苦しい家計
をやりくりし、私たち姉妹を育ててきたのです。母にしてみれば、自分のしてき
た苦労が報われたと感じた瞬間だったのでしょう。本当に母には感謝してもしき
れません。

 拉致事件からどんなに時間が経過しても消すことの出来ない思い出があります。
引き裂かれた時間より短いかもしれないけれど、母と過ごした19年間は、誰に
も消すことのできないものだと思います。

 母を思い出すとき、母を語るとき、私の脳裏にはいつも同じ姿が浮かんできま
す。工場へ行く時に着る母の機械油の匂いが染みついた作業着姿。田んぼや畑で
仕事をするときに着ていた野良着姿と姉(あね)さんかぶり。

 朝早くから夜遅くまで、本当に身を粉(こ)にして働き通した姿です。当時は、
田んぼも耕作していたので、朝仕事をし、朝仕事というのは朝食前に一仕事する
ことなのですが、農家では今でも行っています。そして、私たちに食事を食べさ
せ学校へ送り出し、母も慌(あわただ)しく朝食を取ると工場へ出勤していきまし
た。

 仕事を終え家に帰ってから夕食の支度、後片付け、一休みする間もなく笊(ざ
る)を作る内職をするのです。これが毎日の生活パターンとなっていました。私
の家は貧しく、母が朝から晩まで働いても家計が楽になることはありませんでし
た。

 そんな生活状態でも、母は決して愚痴などをこぼしたことがありませんでした。
それどころか、私たち姉妹にはとても明るく振舞い、少々悪いことをしても怒る
こともありませんでした。自分のことはいつも後回しで、一番に子どものことを
考えてくれるとても優しく、愛情をいっぱい注いでくれる、そんな人でした。

 こうして今、母の話をしている間にも、母との思い出、出来事が次々と頭に浮
かんできます。

 遠足の時、奮発(ふんぱつ)して色んなおかずを作ってお弁当を持たせてくれま
した。私は今までにない豪勢なお弁当にただただ喜ぶだけでした。だけど、母の
お弁当のおかずは、すごく塩辛い漬物が少し入っていただけでした。

「どうして、かあちゃんは漬物だけなの?」と聞けば、「おかずが辛いから、ご
飯がいっぱい食べれるからだよ」と言うのです。「ふ?ん」と特に深く考えるこ
ともなく返事をしたのを思い出します。母も色んなおかずが食べたかっただろう
に、我慢していたんだなと、胸の奥がチクチクと痛み、今なら母の気持ちがよく
理解できます。

 また、友達が新しいセーターを着て学校で自慢しているのを見て、うらやまし
くなり、家のタンスに隠してあったお金を持ち出し、勝手にセーターを買ってし
まいました。そのことが母にバレてしまったのですが、母は私を叱らなかったの
です。

 それどころか、「かあちゃんが、服の一つも買うてやれんもんし、ひとみが一
人で買うてきたんだなぁ。かんねんなぁ、かんねんなぁ」と、逆に私にあやまる
のです。このときばかりは、何てことをしてしまったんだろう、二度としてはい
けないと反省しました。頭ごなしに怒られるより、心に深く突き刺さる母の言葉
に、私はただ泣きじゃくるばかりでした。

 そしてもう1つ、ある年の夏、盆踊りにいくことになりました。友達はみんな
浴衣を着ていくと言うのです。うらやましいと思う気持ちと仲間はずれになりた
くないという気持ちが同時に沸いてきました。母の都合など考えもせず、「盆踊
りに友達はみんな浴衣で行くって言うから、私も浴衣で行きたい。盆踊りの日ま
でに浴衣を縫って」とわがままを言いました。それなのに文句も言わず、母は夜
なべをして浴衣を縫ってくれたのでした。

 当日目が覚めると枕元に浴衣がきれいに畳(たた)んでおいてありました。出来
上がった浴衣を見て喜ぶ私には、そのときの母の気持ちを考えることなどなかっ
たのです。今思い出しても「本当に母には無理ばかりさせたなぁ」と、反省と感
謝の気持ちでいっぱいです。

「あの頃の母は毎日どんな気持ちでいたのだろう」と思うことがあります。生活
に追われ、働きづめの毎日で、オシャレの一つもできなかった。集落の付き合い
や職場の付き合いなどもあっただろうに、数えるくらいしか出かけることもなかっ
たと聞きました。そのせいばかりではないのでしょうが、私の知る限りでは母の
写真は両手で数えるくらいしか残っていません。

 そういえば、いつもどんな状況の時もニコニコと笑顔を絶やさなかった母が、
こっそり泣いているのを見たことがありました。私が小学校の高学年のころだっ
たでしょうか。就寝してからどのくらいたったのか、時間は覚えていませんがふ
と目が覚(さ)め、のどが渇(かわ)いていたので水を飲もうと勝手口へ行きました。
すると、勝手口に灯りがついているのです。遅い時間になっているはずなのに、
まだ母は内職の笊(ざる)を編んでいたのです。

 そっと近づくと母の背中が小刻みに震え、時々鼻をすする音がしました。子供
心にも母が泣いていることが分かりました。笊を編む手を時々顔に当てて涙を拭
(ふ)いているようでした。家族に気付かれないように声を押し殺し、時々背中を
丸めながらしのび泣いているのです。その姿を見た私は、子供ながらに何も聞い
てはいけない、見なかったことにしようと、そっと部屋へ戻りました。

 いつも笑顔しか見たことのない私には、とてもショッキングな光景でした。職
場で何かあったのだろうか?近所で何かあったのだろうか?それとも、私がいい
子にしていないからか?と頭の中でいろいろ考えすぎて、胸が苦しくて切なくて
二度と母に泣いてほしくないと思っていた。

 けれど、次の日の朝母の顔を見ると、いつものニコニコ笑顔なのです。とても
不思議な感覚でした。でも、私たち姉妹には決して心配をかけさせまいと気丈に
ふるまっていたのでしょう。原因は分からなくても子を思う母としての優しさは
十分すぎるほどあの笑顔を見て理解できました。

 昨年めずらしく母の夢を見ました。ここ数年、母は夢にも現れてくれなかった
のです。目が覚めると、胸がドキドキしていました。でも、母が元気な姿で現れ
たので、ホッとしたことを今でも鮮明に記憶しています。偶然にも私の誕生日で
した。

 きっと、私に「おめでとう」を言いたくて現れたのだろうと良い方に考えてい
ます。拉致される前の母の姿でした。何も変わっていませんでした。「母ちゃん、
夢に出てきてくれて、ありがとう」、「私は元気だから、心配しないでね」、
「母ちゃんは、元気にしているの?どこか悪いとこはないの?」、「また、夢に
出てきてくれる?」、「本当は、会いたいよ」と語りかけていました。でも返事
はありません。

 母の顔を思い出しながら、涙が自然とこぼれてきました。きっと、母も私と同
じくらい涙を流しているのだろうと想像しました。すると、もっと胸が詰まり、
苦しくなります。今、ここで話をしていても母を思い出し涙が出そうです。誰で
もいい、母の行方を教えてほしい。あの日以来、母のことを一時(いっとき)も忘
れたことはありません。私と母が拉致されたことは事実なのです。それなのに、
どうして母だけが行方知れずのままなのですか。今この瞬間も母のことを考える
といたたまれない気持ちでいっぱいになります。

 今、私は母の居なくなった時の年齢をとうに越してしまいました。今の私なら
あの時、泣いた理由を聞いてあげられると思います。毎日毎日働きづめで苦しかっ
たことや辛かったことを吐き出して楽にしてあげたい。今の私なら母のわがまま
を受け止めることができると思います。だから母にはあの時言えなかった愚痴を
こぼしてもらい、本当の気持ちを話してほしいと思っています。

 母が帰ってきたなら、やりたいことを好きなだけやらせてあげたい。洋服もた
くさん買って、オシャレをしていっぱい旅行などに出かけてもらいたい。そして、
家族みんなと笑い声の絶えない楽しい生活を存分に味わってもらいたいと、未来
に希望を持っています。ただ、母の年齢を考えるとそんなに長くは待てないので
す。ここで母にあてた手紙を読みます。

 かあちゃん! 元気でいますか? 今、どこにいますか? 何をしていますか?
 病気やけがはしていませんか? ご飯はちゃんと食べていますか? かあちゃ
んのことだから、少しくらい具合が悪くても我慢しているんじゃないですか?
自分のことは後回しにし、他の人を優先して辛い思いをしていませんか?

 仕事柄どうしてもかあちゃんと同年代のおばあちゃんを見ると、かあちゃんと
重なって辛くなります。中には一人では身の回りのことができず、生活に支障を
きたしている人もいます。目の前にいれば手を差し伸べてやることができるのに、
かあちゃんの姿が見えないから、どうしてやることもできません。どうか、お願
いだから何でも我慢しないで、近くにいる人を頼ってください。

 母ちゃんの我慢強さは、時に自分を苦しめることになるんだよ。北朝鮮の一般
市民は、私の知る限りではいい人たちです。時には甘えてもいいと思うから、無
理だけはしないでください。私は、かあちゃんみたいに強くないから毎日が苦し
いです。辛いです。もう35年も待ってるんだよ。話したいことがいっぱいある
んだよ。聞いてほしいこともいっぱいあるんだよ。

 母ちゃんが帰ってきたとき知らないところだと不安だろうと思って、私は故郷
の佐渡で、かあちゃんと暮らした家でずっと待っているんだよ。でも、年々年を
とっていくから、気長に待つなんてことはできないかもしれない。だから1日も
早く帰ってきてください。そして、「ひとみ! ただいま」と私に最高の笑顔を
見せてください。

 かあちゃん! あなたは今、笑えていますか?

 未(いま)だ帰国できずにいる拉致被害者が、今も助けを求めていると思います。
1日も早い解決のため、政府にみなさんの声を届けてください。私たち一人一人
の力は小さいですが、力を合わせることができれば大きな力となるでしょう。そ
のためにも、今後とも皆様のご支援ご協力をお願いします。

 私は、この拉致問題を風化させないため、当時を知らない子供たちにも知って
もらいたくて、学校で講演会も開いているのです。ここに参加してくださった皆
さんも私の話を聞いて、一刻も早く解決させなければと思ってくれたら、みなさ
んの声を中央に、政府に届けましょう。もしかしたら今日、もしかしたら明日、
自分を助けにきてくれるのではないかと、気の狂いそうな時間を過ごしている人
がいます。

「もし自分が被害者だったら」、「もし被害者を待つ家族だったら」と置き換え
て聞いてください。1日でも早い問題解決のため今後ともご支援ご協力をお願い
します。

ご清聴ありがとうございました。

以上


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