救う会全国協議会

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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

「田口八重子さんを救うぞ!」−東京連続集会71報告(2013/02/01)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2013.02.01)

 救う会は、平成25年1月31日、文京区民センターで、「田口八重子さんを
救うぞ!」東京連続集会を実施しました。

 田口八重子さんは、1978(昭和53)年6月頃に拉致され、既に34年が
経過していますが、金賢姫氏証言等、生存情報も多数あります。今回は、に共に
暮らした地村富貴江さんから当時のことにつき手紙で報告していただきました。

 八重子さんの兄である飯塚繁雄さん、本間勝さんと、長男の飯塚耕一郎さんが
報告、八重子さんの姉(長女)の鈴木正子さんが、地村富貴江さんからの手紙を
朗読しました。ジャーナリストの惠谷治さん、西岡力救う会会長が解説。

 なお、昨年2月から進めてきた「1000万署名運動」の結果が平田隆太郎事
務局長より報告されました。署名数の累計は1月30日現在、9,796,97
0筆で1000万まであと203,030筆まできました。

 以下は東京連続集会の概要です。数回にわたり発信します。

■「田口八重子さんを救うぞ!」−東京連続集会71報告

西岡 みなさん今晩は。昨年から一つひとつの事件について改めて見直し、また
新しい情報が少しずつ入ってきていますので、その内公開できるものを公表して
きました。そして一体拉致がどのように行われていたのか、今被害者たちはどこ
にどうしているのかを踏まえて、どう救出するのかにつなげていきたいと思って
います。

 この連続集会は、各被害者の思い出を語る集会が始まりでしたが、今日はそれ
よりも、事件がどういうものだったのか、田口さんが北朝鮮に行った後どんな生
活をしていたのか、そして今どうなのかということについて検討しながら救出に
ついて考えていきたいと思っています。

 昨年、第1回目で増元るみ子さんについて集会をしたのですが、その時蓮池祐
木子さんから、るみ子さんとの生活等について手紙をいただきました。同じこと
を今回も試みてみました。

 飯塚繁雄さんから、八重子さんが拉致された直後に一緒に教育を受けたことが
判明している地村富貴江に、その時の八重子さんの様子を具体的に教えてくださ
い、手紙をくださいとのお願いを出して、返事をいただきました。

 まずそれをご紹介して、その手紙から何が分かるのかについて私と惠谷さん、
飯塚さんとともに考えていきたいと思います。まず、富貴江さんとの間でどうい
うやりとりをしたのか、どういう経緯でこの手紙が来たのかについて、飯塚代表
からお願いします。

飯塚 みなさん今晩は。いつもありがとうございます。今日は特に、田口八重子
についての色々な検証をしていこうという集会になると思います。私が富貴江さ
んに会ったのは、帰ってこられて1年たらずの間でした。実際に会って、色々お
話を聞きました。情報が錯綜する中で、八重子の情報を聞いてきたという経過が
あります。

 しかし、少し遅れて来ますが、耕一郎が母親のことをもっとよく知りたいとい
う気持があり、私たちが一生懸命話はしてきたんですが、今回は北朝鮮での話を
もう1回お聞かせ願えないかということで、実は昨年11月5日に、手紙を出し
ましたら、1週間後に返ってきました。

 その内容はこれからご紹介します。古い話が多いんですが、でもそれは真実だ
ということの上で、本人への思いや、これからどうしなければならないかという
ことをテーマにしたいと思います。

西岡 ではまず、八重子さんの一番上のお姉さんである鈴木正子さんに朗読して
いただきます。

◆地村富貴江さんからの手紙

地村富貴恵さんから飯塚繁雄さんへの「報告」

平成25年1月31日 東京連続集会
註)「八重ちゃん」は田口八重子さん

1.一緒にいた期間

 八重ちゃんと一緒に生活した期間は、1978年(昭和53年)9月から1979年11月
25日までです。

 近くの招待所に来て会ったのは1984年10月初めから1986年7月初めです。

2.最初に会った時の印象

 背が高く都会的なイメージで、同い年とは思えない位、大人っぽい感じでした。
でも話して見るととても甘えん坊で、無邪気な面もたくさんありました。私が関
西弁に近い話し方なので、「あかん」「しらん」なんて言うと簡単で良いと真似
したりしました。

3.北に連れてこられての思い

 北のナンポ(西海の港)に着いた時、女の人が通訳として、来ていたそうです。
その人に「私には子供が二人いて、どうしても日本に帰らなくてはならないので、
帰してほしい」と何回も言ってお願いしたそうです。しかし、その人は「何故こ
んな子を連れて来たか分からない」と言っていたそうです。

 だから八重ちゃんの思いは最初から最後まで子供のことでいっぱいでしたし、
今でも間違いなく今彩ちゃんは、いくつになって、耕ちゃんは、いくつになった
と毎年計算しているだろうし、どんな大人になったか、知りたいと思うし、すご
く会いたがっていると思います。

4.残してきた2人の子供たちについて

 初めて逢った時から、子供がいることも話してくれました。ナンポに着いての
話もモランボン招待所に一緒に住んでいたときに聞きました。その頃、二階に映
画館があったので、1週間にl、2回朝鮮映画を見ました。革命映画といって、普
通のお母さんが、革命の為だと赤ちゃんを姑に預けて鉄砲(1940年頃)を担いで
戦いに出る時、赤ちゃんと別れるシーンが結構あったのですが、その場面ごとに
八重ちゃんが泣きました。自分と重なってとても悲しかったのだと思います。

 お酒を飲む機会があったりすると、子供のことを話してくれるのですが、すご
く、辛そうに話すので、私はどう声をかけたら良いか、分からなかったです。

5.飯塚さん兄弟について

 お母さんが、佐渡出身で、子供の頃は良く遊びに行ったこと、自分は末っ子な
のでみんな大事にしてくれたことなど教えてくれました。

 特に上のお兄さんには子供を見てもらったりして、とても有難かったと言って
いました。正確には、お兄さんの奥様に感謝していたようです。離れて見て一層
有難味が分かったようでした。

6.招待所での暮らし

 二人で暮らし始めてからは、同じ日本人同士、仲間意識が強かったです。日本
の歌をカセットに吹き込んだのがばれて指導員に注意を受けたことがありました
が、日本の歌を聞いて何が悪いのかと食って掛かり、没収されずに済んだことも
ありました。一人では言えないことも二人だったら心強くて二人で暮らすように
なってからは、強くなった気がします。

 朝鮮語を早く習う為だと指導員が簡単な内容でもいいからと日記を書けと言っ
たのです。でも二人で簡単過ぎる日記や書かない日が続くと指導員に良く怒られ
たものです。それもそのはず、二人で約束した小さな抵抗でした。

 モランボン招待所は峰の裾にあったので、その峰がすごく良い散歩コースでし
た。人が多い所は避けて反対方向に行くと通行禁止区域があるのですが、そこま
で行っては帰って来ました。ある日何も言わずに散歩に出かけて下りて来ると、
シンガンスが鬼の形相で待ち構えていました。怒られたのは言うまでもありませ
ん。何かあると指導員から怒られるのは、一緒に生活して監視しているシンガン
スでしたので、必死だったのだと思います。

7.楽しみ

 1979年1月頃、モランボン招待所からウォンフンリの方に移ったのですが、そ
こは、ピョンヤンから車で40分くらい掛かるので指導員も1週間に1度くらいしか
こなかったのです。それで時間もたくさんあって、編み物などを始めることにし
ました。でもかぎ針がありません。しかたなく木を切って来てかぎ針を作ること
にしたのです。でも、かぎ針の引っ掛けるところがうまくいかず、何回も失敗し
たけど、諦めずに作り上げました。

 私は、日本に居る時、洋裁も習ったし、編み物教室にも通ったことがあって、
手編みも出来たので、八重ちゃんに教えてあげました。暇があるとマフラーや手
袋、靴下カバーなんかを編んだりしました。

 また、簡単な洋服とか、スカートも縫ったりしました。招待所のお母さん達の
部屋には必ず、ミシンが置いてあったので、私たちの部屋まで持って来て使わせ
てもらいました。

 洋服の生地はもちろんお店で買って来て型紙も作り裁断しました。八重ちゃん
は自分で洋服を作って見て、「私も子供たちの洋服を作れたら良かったのに」と
随分残念がっていました。それぐらい、上手に出来上がりました。

 私たちは、同い年というのもあってか、気も合い、喧嘩もしたことがなく、い
つも楽しく過ごせたと思います。

8.歌

 その頃、ラジオから流れてくる八神順子の「みずいろの雨」がとてもいい曲で
貸してもらったラジカセで聞いていました。日本語を聞きたくて探していると多
分福岡放送が入ったと思うのですが、印象深いのがこの曲でした。

 そして、うちのお兄さん(七郎)が、沢田研二に似ていた頃があって、結構歌
も好きだったので、その頃流行った「ダーリング」をラジオからカセットに吹き
込んで二人で歌ったり踊ったりしました。八重ちゃんは、「ジルバはこうやって
踊るんだよ」等と教えてくれました。

9.朝鮮語の教育について

 八重ちゃんが、モランボンに来て、まもなく朝鮮語の勉強が始まりました。先
生は、私を拉致したシンガンスです。

 来た頃、八重ちゃんは、私より遥かに朝鮮語を話しました。私の周りには日本
語が出来る人ばっかりだったので朝鮮語で話す必要がありませんでしたが、八重
ちゃんは日本語の出来ない管理員のおばさんと料理師のおじさん、二人といたそ
うです。だから、朝鮮語を話さなければ通じないので一言一言習った言葉の発音
をカタカナで書いて練習したみたいです。紙に書いた単語等を見せてもらいまし
たが、その頑張りには本当にびっくりしました。

 朝鮮語の勉強に使う教科書は「キムイルソン総合大学」の留学生が使う物でし
た。その教科書と文法の本を約1ヶ月、真面目に、本当に真面目に習ったと思い
ます。字が読めるようになると、単語をどれだけ覚えるかで違って来るので、な
んか一生懸命、覚えた記憶があります。それに、そこにいた30歳前後の若い料理
師が、時間があると熱心に発音とかを教えてくれました。

10.お互いの日本での暮らしについて

 私が、色々話を聞いたように思います。八重ちゃんが来る前にシンガンスとい
たので工作員になるには、名前、生年月日など、本当のことを言っては駄目だと
言われ、私は生年月日も10日遅れにしたりしていました。その時は八重ちゃんも
7月7日が誕生日でしたが、本当の誕生日は日本に帰って来てから分かりました。
だからお互いお誕生日は、違う日に祝っていた訳です。

 名前は指導員がコへオク(高恵玉)と付けたので、「へオギ」と呼んでいまし
た。私は八重ちゃんにどんな話をしたのか全然覚えていませんが、八重ちゃんが
話してくれた内容は本当のことだったと思っています。

11.夜

 夜ではなくとも、お酒が入ると泣き上戸になるほうでした。特に指導員が来た
り幹部が来たりすると必ずお酒を飲むのですが、その人達が帰った後、二人にな
ると子供達が恋しくて思い出しては泣いていました。

 鏡を見るときも、前髪をあげたりすると「彩ちゃんにそっくり」なんて言った
りしました。耕ちゃんが這い始めると隣のベランダまで行こうとしたことや彩ちゃ
んと耕ちゃんが、外で遊んでいて迷子になった時も名前をちゃんと言って交番の
お巡りさんに連れて来てもらった話なんかも聞きました。「ほんとに小さいのに
しっかりお姉ちゃんをしてるね」とか言う会話をしていました。

 たぶん夜、ベッドに入っても考えることが多くてなかなか眠れなかったと思い
ます。小さい子供をベビーホテルに預けて来た事もとても心配していましたので、
寝ても覚めても子供の心配で生きた心地がしなかったと思います。

12.日本からの助けを待っている様子

 日本からの助けなんて、あることすら考えていませんでした。自分達があんな
所に行ったばっかりにこんな所に連れて来られたとしか考えてなかったので後悔
ばかりしていました。

13.帰国をあきらめる様子はあったのか?

 1985年、チュンファと言う所にいた時です。私たちの隣の招待所に八重ちゃん
がめぐみちゃんと一緒に生活していた時、秘密裏に行ったり来たりしていたので
すが、私が八重ちゃんの所へ訪ねて行った時、「海外へ行くチャンスを作ること
が出来たら絶対日本大使館に逃げ込んで日本に帰る」「その為に努力する」と言っ
ていました。どうしても帰りたいという気持ちは前よりもっと強いことが分かり
ました。

14.お互い分かれる時、何か話したか?

 1986年7月の初め、八重ちゃんが私達の招待所に来て、「違う招待所に行くか
もしれない。そこに行ったらもう会えないかもしれない」と言っていました。

 その後、直ぐピョンヤン市内の招待所に移ったのですが、それから先は全然会
えなくなってしまいました。

15.その他

 1984年にチュンファで5年ぶりにあった時のことです。八重ちゃんは、うちの
招待所に度々遊びに来ていました。うちの娘が2歳半くらいだったので、自分は
寝そべって子供を抱きかかえて「高い高い」を何回もしてくれたのです。そのと
きからうちの娘は、八重ちゃんのことを「ピヘンギアジミ(飛行機のおねえさん)」
と呼ぶようになりました。不思議にも娘は今でもそのことを忘れていません。八
重ちゃんは、「子供たちを思い出す」と言いながらうちの娘をとても可愛がって
くれました。

 本当は行き来しているのが、ばれると指導員に怒られるのですが、チュンファ
は、ピョンヤンから車で1時間くらい掛かる所だったので、指導員が帰った後は
安全なのでそんな夜は動けるわけです。

 そしてこの頃になると朝鮮語も随分上手になっていたので、招待所のお母さん
は、私たちの味方をしてくれて、指導員に告げ口することもなかったのです。

 1978年、9月以降、八重ちゃんと私が一緒に生活していた時、胃が悪かったみ
たいで、1週間に1度招待所に来るお医者さんから、いつも薬をもらって飲んでい
ました。良くゲップをしたり胸焼けもしたりでかなりつらそうでした。ストレス
から来るものだったと思われます。

 胃の検査をしに915(クイルオ)病院に行ったときも、胃カメラをどうしても
飲み込むことが出来ずそのまま帰って来たこともありました。

 又、1979年の夏だと思いますが、そこの招待所で犬を飼っていたのですが、八
重ちゃんは凄い犬好きで、いつも犬とじゃれあっていました。どういう風になっ
て噛まれたのか手か足か記憶がはっきりしませんが噛まれたことがありました。
北では、犬に何の予防注射も打っていないので、2週間くらい、入院して注射を
打ってもらいました。北ではかなりの割合で狂犬病に掛かる人も多かったみたい
です。

 そして1985年、チュンファで会ったときは、坐骨神経痛で入院したりもしてい
ました。高校の時、休育の時間に逆立ちの練習をしていたとき、二人一組でして
いたのですが、八重ちゃんが逆立ちをするとき足を持ってくれる筈の人が持って
くれず、そのまま地面にたたきつけられた形になったと言っていました。それが
原因かは分かりませんが、その後、腰痛も出始めたみたいです。

 この頃の八重ちゃんは、5、6年前までの八重ちゃんではなく、ものすごく痩せ
ていました。自分では、ダイエットをしたのだと言っていましたが、痩せ過ぎだ
と思いました。

手紙は以上

(つづく)



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