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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

帰りたいねえとお互い話し合った?蓮池祐木子さんが増元るみ子さんとの生活を証言(2012/08/10)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2012.08.10)

 本日紹介する蓮池祐木子さんから増元照明さんへの手紙は、照明さんが、お母
さんがまだ元気なうちに、増元るみ子さんと北朝鮮で約1年一緒に暮らした蓮池
祐木子さんに、どのような暮らしだったかを教えてほしいということ、また東京
連続集会で皆様にも伝えたいということで手紙でお願いしたところ、蓮池祐木子
さんが7月29日付けで返事をくれたものです。

 8月9日に開催された東京連続集会で増元照明さんが公開しました。

 丁寧な字で、こころをこめて書いてくださったことが一目で分かるもので、増
元照明さんは心から感謝の言葉を述べました。

 また、この手紙により、蓮池祐木子さんと増元るみ子さんは、1979年10月25日
まで約1年間、一緒に暮らしたことが判明し、北朝鮮が嘘の主張をしていたこと
も分かった。

 つまり、北朝鮮は、蓮池薫さん、祐木子さん夫婦は、1979年7月に結婚と主張
していたが、それは経歴偽造であったこと、つまり生存していることが改めて明
らかになった。

 また、アベックで拉致された祐木子さん、るみ子さんは、それぞれ、「逃げた
ら軍が捕まえる」と脅された上で、「相手(恋人)はもう日本に返した」とだま
されてから、「ここで私は生きていかなければならない」と覚悟したことも証言
し、拉致被害者に対する卑劣な手口も明らかになった。

 さらに、二人は約1年間で3回引越しをさせられているが、「明日荷物をまと
めるように」と強制的に引き裂かれていた。

 東京連続集会での発言は、後日送信します。


■帰りたいねえとお互い話し合った?蓮池祐木子さんが増元るみ子さんとの生活
を証言


◆増元照明さんの質問に対する蓮池祐木子さんの返事
24.07.29付

Q.姉・るみ子とはいつから何時まで一緒に暮らされたのでしょうか。

 るみ子さんとは、1978年秋から翌年の秋の10月25日まで、約1年間一緒に生活
しました。

 ピョンヤン駅からあまり遠くないアパート(幹部が多く住んでいて、ベンツが
多く出入りして、歩哨も立っていました)で、私が他の招待所からそのアパート
に引っ越した後、指導員がるみ子さんを連れて来ました。現地で作ってもらった
ワンピースを着て、荷物はスーツケース(外貨ショップでみんながひとつずつ与
えられた)ひとつを持って。

 ピョンヤンでしたので、二人きりで2回くらい自由に散歩した事が、今思えば
そんな自由があったんだと不思議に感じます。

 お正月は、アパートで過ごし、そのあとレンチョン招待所に移りました。郊外
で部屋が(応接間兼勉強室、隣には寝室、バス、トイレ)3、4個ありました。
卓球場、映画館もあり、かなり大きな建物でした。そこには春頃までいたような
気がします。

 それから順安招待所に移りました。順安飛行場の横を通り過ぎ、ピョンヤンか
らはかなり離れた農村地帯で、とうもろこし畑が一面に見える、ちょっと高台に
ある招待所でした。るみ子さんとわかれるまで、その静かな所で生活しました。
10月25日まで。


Q.最初にあった時の印象は。

優しい印象でした。
背が高くて、スマートで。
約1年間一緒に生活しましたが、おだやかな性格で、
やっぱり優しかったです。


Q.お互いの境遇に関しては聞いていたと思いますが、姉が不安を感じていると
ころはありませんでしたか。

 るみ子さんも最初はずっと泣いていたそうです。一度は洋服ダンスの中で泣い
ていたら、指導員に見つかってしまったとか。裏山にある栗の木の下で泣いた事
も。

 最初は怖くて招待所のおばさんの部屋で一緒に寝ていたと言っていました。北
朝鮮に連れてこられて2か月くらい経ってから私たちは会ったので、泣く事はあ
まりなかったですが、ピョンヤンのアパートにいる時、るみ子さんが2度くらい
具合が悪くなって(寝たまま目を開けられなかった時がありました)、医者が来
た事がありました。


Q.日本の家族の事を話していましたか。

 お互い自分の事に関しては話さないようにと指導員に言われましたが、会った
その夜、二人でずっと小さな声で深夜遅くまで話しました。

 お父さんは公務員で家族は社宅に住んでいて、お父さんが退職したら指宿に家
を建てるんだと言っていました。

 お兄さんやお姉さん、弟さんがいて、弟さんは北海道にあこがれていて北海道
の大学に行っている事。

 自分は腰が弱く、痛い時は、お母さんからよく腰をもんでもらってた事。
家には白い椅子が置いてあった事。


Q.日本に帰りたいと言って泣いていたことはありませんでしたか。

 ピョンヤンのアパートにいる時、夜、ベランダに出ては外を眺めながら、帰り
たいねえとお互い話しましたが、もうあまり泣くことはありませんでした。最初、
いっぱい泣いたので、お互いの前でもう泣く事はなかったです。


Q.姉の好きな歌はなんだったでしょうか。

 はっきり覚えていません。

 るみ子さんがちょっと体の具合が悪くなってベッドに横になっている時、何回
か私が歌を歌った事があるんですが、喜んで聞いてくれました。今でもはっきり
覚えているのが、ジュリーの曲で、出だしが“髪型が変わりましたね。秋風によ
く似合いますね”の曲はよく歌いました。

 一緒に「瀬戸の花嫁」とか「花嫁」は、よく二人で歌ったような気がします。
るみ子さんは、まもなくして北朝鮮の歌を覚えたそうです。

「キム・イルソン将軍の歌」「カン・バンソクオモニ」(キム・イルソンの母親
の名前です)です。私もるみ子さんから習いました。前一緒にいた指導員から習っ
たと言っていました。本当にじょうずでした。みんながびっくりしましたから。
日本にいる時、琴を習ったと聞きました。


Q.姉は通常どのような事をしていたのでしょうか。

 るみ子さんと会ってしばらくして指導員から朝鮮語を習いました。その人は独
学で日本語を勉強した人で、あまり上手ではなかったですが、キム・イルソン総
合大学で出版された朝鮮語(日本人用)の教材で勉強が始まりました。時々テス
トもありました。

 ある程度進むと聞き取りの勉強が始まり、指導員が話す事をノートに書き出す
練習をしたり、それから日記を毎日書くように言われ、わからない所は日本語で
書いて。でも毎日二人で書きました。指導員が招待所にくると、必ず日記を見て、
ことばの間違っている所を直してました。

 指導員はだいたい週2、3回くらい私たちの所に来て、勉強を教え、昼食はほと
んど一緒にしました。時々は夕方までいて、夕食を一緒にする事もあり、そんな
時はみんなでダイヤモンドやトランプをしたりもしました。

 私たちは、朝起きると軽く運動してから朝食をとりました。朝はほとんど食パ
ンを蒸し器で蒸したものと、バター、ジャム、キムチ、ハム、卵焼きでした。昼
食と夕食はほとんど朝鮮料理でした。レンチョンの招待所に居た時は、おじさん
の料理師で日本料理を作っては私たちを喜ばせてくれました。天ぷらうどんなど
がでると、“おししいね”“なつかしいね”と食べたものです。

 夕食が終るとお風呂に入って、るみ子さんは髪が長かったので、必ずカールで
巻いて、きちんとしていました。招待所によっては、おばさんたちと一緒に応接
間でテレビを見たりして夜を過ごしました。


Q.余暇には旅行などしていたのでしょうか。

 旅行は一度もありませんでした。

 二人でいた時、ピョンヤンの歴史博物館や平安北道妙香山にある親善博物館
(世界各国からキム・イルソンやキム・ジョンイルに贈られて来た贈物が展示さ
れている所)、それから信川博物館(朝鮮戦争の時、アメリカ軍が人民を虐殺し
た資料、写真が展示してある所)、その場所には無惨に殺された母親たちの大き
なお墓があったんですが、そのお墓の前でるみ子さんはずっと涙を流していまし
た。

 見学といっても、すべて勉強でした。

 必ず、外出する時は、前日に連絡が来ました。お昼が必要であればおばさんが
全部用意してくれたり、また、博物館にある特別な部屋で食事をする事もありま
した。

 外出する時は、指導員や運転手(車はほとんどベンツ)がいつも一緒でした。


Q.楽しそうにしてたころはあったのでしょうか。

 ずっと招待所にいましたから、外出するのは嬉しかったようです。

 月に1度、ショッピングに行くのが、やはり楽しみでした。行った当時は一般
の外貨ショップには行けず、普通のアパートの1階にお店が設けられていて、中
は見えないようにカーテンがしてあり、私たちのように特別な人たちのお店だっ
たようです。朝鮮の普通のお金ではなく、その店だけに通用するお金でした。

 靴を買ったり、化粧品(当時、資生堂、カネボウ化粧品が置いてあって二人で
ビックリ)を買ったり、お菓子を買ったりしました。

 一度、るみ子さんが木綿のストライプの布を買って来て、ノースリーブのブラ
ウスを縫って着てました。二人で新聞紙でかたがみを書いて、裁断して、おばさ
んの昔のミシンで縫いました。

 るみ子さんが、鹿児島ではすいかの皮(白い部分)で漬物を作ると言って実際
に作ってくれた事がありました。しょう油で味つけしてありました。

 たった二人で、お弁当を作って、招待所の裏山に登って食べた事もありました。

 ハウスのカレー粉で二人でカレーを作ったりしたんですが、粉だけで作った事
がなかったので、うまくできなくて辛いカレーを何回か食べました。

 招待所に来る人も限られていましたので、人が来ると必ず出て、あいさつした
ものです。週二回食品を運んでくれるおじさんでしたけど。

 るみ子さんは卓球がうまくて、私も少し教えてもらったりしましたが、一緒に
卓球をしようと言われ、よく相手していました。選手だったとかで、さすがにう
まかったです。


Q.蓮池さんは日本からの救出を諦め、北朝鮮で暮らす事を考えたとおっしゃっ
ていますが、姉にもそのような覚悟をする時があったのでしょうか。

 私一人でいる時、幹部がある日来て、一緒に来た恋人(男性)は必要ないので
日本に帰したと言われた時から、ここで私は生きていかなければならないんだと
思いました。るみ子さんも私と同じ事を言われたと聞いたような気がします。

 それから、気持ちが変わりました。もし、逃げたりしたら、軍隊を動員してす
ぐに捕えると最初に脅されたので、二人でいる時も、日本に帰りたいねえと言っ
ても、怖くて、逃げようかと話した事は一度もありませんでした。

 ある程度、朝鮮語の勉強が進むと、チュチェ思想(主体思想)の講座を受けま
した。ある日、るみ子さんが創価学会の思想とチュチェ思想は似たような部分が
あると一言、言ったら、ひどく指導員が怒って、るみ子さんが泣きながら外に出
て行った事がありました。
向こうで、他の宗教を信じる事はなかったです。


Q.姉と別れる際、どのような会話があったのでしょうか。

 前日、るみ子さんだけが引っ越すので、荷物をまとめるようにと指導員に言わ
れ、急な事だったので驚きました。

 何を話したかは覚えてないんですが、とにかく二人で泣きました。

 丘の上にある招待所にいたので、下の道がよく見えて、るみ子さんも車の窓を
開けて、ずっと身をのり出して招待所が見えなくなるまで手を振ってくれ、私も
車が見えなくなるまで泣きながらずっと手を振っていました。

 その日がパク・チョンヒ大統領が暗殺された前日でしたので、はっきり覚えて
います。


Q.そのほか、思い出されたことがありましたら……

 るみ子さんの誕生日に幹部がフランス製のコニャックを1本持ってお祝いに来
て、夕食を一緒にした事がありました。その時、二人ですごく酔った事がありま
した。

以上

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