01_不安だった小泉訪朝
この論文は、月刊『Voice』平成16年7月号掲載から引用したものです。ご活用下さい。
小泉訪朝を評す
総理はカードを切りすぎた
圧力なくして残る被害者を取り戻すことができるか
西岡 力(救う会常任副会長)
■不安だった小泉訪朝
今回、小泉訪朝の話を聞いたとき、私はまず非常に強い不安を感じた。そして、何とか思いとどまってもらえないかと、「救う会」として行動も起こした。そしてその不安は的中した。第2回の日朝首脳会談は完全な失敗だったと思うのである。
私は常々、話し合いが通じる自由主義国と同じ構えで北朝鮮と交渉してはならないと主張してきた。こちらの要求を通すには、お互いに共通利益をつくって話を進めるのではなく、「こちらの言い分を聞けばそれなりの恩恵が受けられるが、それをしなければ重大なダメージを受ける」といった、アメとムチを見せることが必須なのである。
このムチの一つが今年2月に成立した「改正外為法」である。これにより「我が国の平和及び安全の維持のために」、貿易や送金を止めるなどの経済制裁を行なえるようになった。さらに四月には「特定船舶入港禁止法案」が国会に上程され、間もなく成立する見通しである。
この二つのムチが揃えば北朝鮮にかなりの圧力をかけられ、拉致問題解決に向け有利な展開が期待できることは間違いなかった。ところが今回の訪朝では、「船舶法案」の成立が間に合わず、日本は切れるカードが大変少ないなかで交渉を行なうことになった。この拙速さが失敗を招いたのであり、そこに大きな憤りを感じる。
少なくとも二法を成立させ、十分なムチを用意してから交渉すべきだということは、過去の交渉を見ればはっきりしている。
たとえば2000年に日本は、北朝鮮に合計60万トンのコメ支援を行なった。その際「救う会」は、「家族会」とともにコメ支援に反対する座り込みを行った。当時の河野洋平外務大臣はコメ支援をする代わりに拉致被害者について調査する約束を北朝鮮からとりつけた。ところが返ってきたのは「拉致被害者などいない」という噴飯たるもので、コメ支援の成果はなきに等しかった。ムチが用意されていなかったことがこのような結果を招いたのである。
一方、94年の「核危機」のときは違った。この「核危機」は93年3月に北朝鮮がNPT(核不拡散条約)からの脱退を宣言し、核武装を公然化させたことに発するもので、これに対しアメリカは、94年6月に国連の安保理事会で経済制裁決議を行なう準備を進めた。日本もこれに全面協力し、朝鮮総聯から北朝鮮への送金を止めるため、日本の警察は総聯の大阪、京都の地方本部に家宅捜索を行ない、さらに東京の中央本部を家宅捜索する準備も進めていた。まさに日本からの送金が止まり、アメリカの第七艦隊による北朝鮮籍の船の臨検が実施されようとしていたのだ。
これにあわてた金日成は、アメリカのカーター元大統領との会談を行ない、核の原子炉を止め、さらに再処理した燃料棒をIAEA(国際原子力機関)の監視下において封印することを承知したのである。アメリカの圧力が北朝鮮を変えさせたのである。
あるいは「力」によって、北朝鮮がアメリカに謝罪したこともある。これは「ポプラの木事件」と呼ばれるもので、1976年に板門店で起こった。板門店の共同管理区域にポプラの木があり、その枝を切ろうとしたアメリカ兵が北朝鮮の兵隊に斧で殴り殺されたのである。事件を知ったアメリカはこれを重大な侵略行為と受け止め、武力攻撃する用意を見せた。さらには韓国も、アメリカの同盟国として北進する準備を始めた。すると金日成は、アメリカに対して遺憾の意を表明したのだ。
これらの推移からわかるのは、北朝鮮を動かすことができるのは「善意」ではなく「力」だということである。共産主義者という唯物論者が信用するのは、目に見える「力」だけである。「相手の善意を信じて話し合う」といった、自由主義国の論理ややり方はまったく通用しないのである。