第16回「日本人拉致の3類型?松本京子さん拉致を中心に」
◆条件拉致というものがあるというのが私たちの仮説
救う会テレビ救う会全国協議会会長西岡力です。今は令和2年7月20日午後7時半です。
今日は前回に引き続きまして、「日本人拉致の3類型、今回は松本京子さん拉致を中心にして」と題してお届けいたします。
まず前回申し上げた3類型ですけれども、遭遇拉致は、拉致を目的にしていない工作員が偶然遭遇した対処者に対して行う。人定拉致は、事前に拉致対象候補者に関する調査を行って、その人物を対象とすることを決定した後に起きる。条件拉致は、若いカップル、若い女性等という条件に合致する候補者をその場で選定して行う、という三つがある。
特にこの条件拉致というものがあるというのは私たちの仮説であります。
今日は松本京子さん拉致についてお話しいたします。まずこれを見て頂きたいのですが、バッテンがついているところが京子さんが拉致された現場だと思われるところなのですが、海岸が見えますよね。
白浜、綺麗な海岸ですけれども、すぐ近くにあるということはこの航空写真から分かると思います。まっすぐ一本道が海岸までつながっていますね。国道があって、それを越えると海岸だということです。
これはgoogle(マップ)なのですけれども、赤い四角のところ、これが京子さんの自宅であります。それから右の丸印、これは編み物教室です。
京子さんは、昭和52年1977年10月21日夜、編み物教室自宅の近くの編み物教室に通おうとして、その途中でいなくなってしまったということであります。 後で詳しく言いますけれども、Aという地点のお宅で受験勉強をしていた中学生が悲鳴のようなものを聞いていたということです。そしてBさん宅の(前の)X印をした地点で、そのBさんという人を殴って、京子さんを担いで海岸に向けて逃げて行った。
この拉致の特徴は、犯人が目撃されているということなのです。これは地図ですけれども、京子さんは自宅を出て角を曲がってAさんの家の前まで来たのではないかということです。
これがAさんのお宅です。これは海に向かって道路の左手にAさんのお宅があって、右手は生垣です。そしてここのすぐ近くですね、海側を少し行ったところに実はBさんの自宅があるのです。
もう一度これを見て頂くと分かりますけど、Bさんの自宅は海に向かう道路から少し入ったところになるのです。小径があるのですけれども、工作員と思われる二人と京子さんは、このBさんの家に入る小径にうずくまっていたというのです。
これが現在のBさんの家に入る小径の所なのですけども、実は小道が今は塞がれていて低いブロック塀になっています。
Aさん宅から海に向かって、前方数十メートルの右手ですけども、そのブロックをくぐって木立の中に入ってみると、下の写真のようになっています。現在は裏庭のような空間になっています。
◆工作員も京子さんも目撃されている
左側の木立の向こうにブロック塀があります。そして奥に見える家があるのですけれども、その(Bさんの家の)隣家ですね、Bさんの家はこの右側にある。レンガのちょっと見える家ですけれども、当時はですね(隣家とBさんの家の間に)塀があったのだそうです。
その塀の所に二人がうずくまっていたというのですけれど、なぜそうだったのか。現場を調査してわかったのです。この辺に住んでる人は夕食が終わった後、知り合い親戚の家に行ってお茶を立ててもらって飲むというのです。
BさんはCというこの家で(お茶を飲んでいた)。そしてこの海に向かう道に自宅に帰る時にパッと現れたのです。Aさんの家の前で京子さんを襲ったと思われる工作員たちは、そのまま突っ走って海に行こうと思っていたはずです。まっすぐ行くと海ですから。
そして京子さんを襲う時に、この道は誰もいなかったのだと思います。だから襲えた。ところが突然Cさんの家からBさんが出てきて、海と反対方向に歩いて来るのですね。
このまま行ったら目撃されてしまうということで、すぐ近くのBさんの家に曲がる小径に隠れた。そしてCさんをすれ違って向こうに行かせて、それから海に逃げようとしたのではないかと推測されるわけです。
ところがBさんの家がその小径の奥にあったのです。Bさんはそこを曲がるしかないわけです。そして「お前たち何してんだ!」とBさんが言ったと。
そこで(しゃがんでいた)京子さんと二人の男のうち1人がBさんを殴って、そしてBさんが倒れている間に逃げて行ったということです。道にですね京子さんのサンダルが右側だけが落ちていたということです。
ですから京子さんは、袋には入れられてなかったのではないか。サンダルが落ちたということはですね、あるいは襲われた時に既に(サンダルは)脱げていたのかもしれません。
Bさんは京子さんが袋に入れられてるとの目撃はしていなくて、京子さんと分かって「何してんだ!」と言ったということになっている。
ただ残念なことに、Bさんはこの事件の後それほど経たないうちに、お亡くなりになったということで、詳しい証言を聞くことができないというわけです。ただここで分かるのは、この拉致は少なくとも(京子さんとの)遭遇拉致ではない。
Bさんとは遭遇しているわけです。(京子さん)拉致という重大な秘密を目撃されているわけですね。拉致という重大秘密を目撃されたらその人も拉致、撃者も拉致するのか。拉致してなくて殴って、そして逃げていった。
つまり遭遇拉致というのは、かなり限られた状況しかないのではないか。常識的に考えたら、連れて行くよりは逃げた方が安全なわけです。足手まといになりますから、連れて行くということは。
ですから前回お話しためぐみさん拉致についても遭遇拉致ではなかったのではないか。真っ暗だったいうことだから遭遇拉致ではなかったと言いました。もう一つ無線機を使ってるところを見られたとしても逃げればいいのですから。
わざわざ拉致が目的でなくて来ていたとすれば、連れて行く必要ないわけですよね。
◆沖に工作船がいた
そしてこの松本(京子)さん拉致が条件拉致だと思われる根拠の一つがですね、めぐみさんの拉致のときも申し上げましたけれども、沖に工作船がいたということですね。
めぐみさんの拉致をするために工作員が入ってきていた。その時沖で工作船が待っていたということですね。通常であれば、人定拉致であれば捕まえて連絡をして、それから工作船が来るのですけど、そうではなくて待っていてすぐ連れてったということで、条件拉致ではないかと言ったわけです。
京子さんの場合も工作船がいたことが明らかになっています。京子さん拉致の4日前ですね。海上保安庁は日本漁船に擬装した工作母船を発見しているのです。これは地元紙の山陰中央新報1977年10月18日付で、21日に京子さん拉致がありました。
10月11日午前7時40分頃、島根県(鳥取県のすぐ隣ですけども)島根県江津市(ごうつし)北約15キロの日本海で見かけない不審な船が東へ向けて航行しているの操業中の小型船『寿丸』が発見され、浜田海上保安部へ届けた。
防犯部の巡視艇『やなかぜ』が出動。同日午後零時半頃、1時40分に見つけられて、そして保安庁の船が見つけたのが午後零時半頃、簸川郡大社町(ひかわぐんたいしゃまち)日御碕(ひのみさき)沖西北西約42キロの海上で発見した。
約8キロまでに迫ったけれども、16ノットで追跡する『やなかぜ』を振り切って、1時間後北のほうに逃げたと。この船は20トン前後青色で漁船風、『やなかぜ』が追跡中、近くにいた漁船が、船名は『長久丸』だと報告しているが、同保安部が調べたところ、この名前の船は実在しないことが分かったと。密航か密猟かといってるのですけど工作船だったと。
この工作船、工作母船がいた島根県江津市沖、京子さん拉致現場の鳥取県米子市から約百キロ離れていますけど、北方に逃げた後米子の沖合に現れたのではないかと(推定される)。
これは略図ですので正確ではないです。ここをこんな風に逃げて、その後拉致(現場)の方に来たのではないかと思われるわけです。
松本京子さん拉致も、めぐみさん拉致と同じように、若い女性という条件を満たす人を連れて行くという条件拉致ではないかと私たちは見ているということを今日お話しいたしました。
条件拉致か人定拉致かについてはですね、その次の年に起きたアベック集中拉致事件などと総合すると、より一層分かってくるわけです。特に蓮池さんたちと地村さんたちと曽我さんは帰ってきていますので、具体的な状況が分かっているということもあって、条件拉致ではないかというふうに私たちは仮説を立てたということですけども、そのことについては追ってまたお話したいと思います。
今日は、「日本人拉致の3類型ー松本京子さん拉致を中心に」ということでお話しいたしました。
ありがとうございました。
以上