救う会全国協議会

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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

国際会議「北朝鮮による国際的拉致の全貌と解決策」全記録




北朝鮮で共に暮らした拉致被害者



1.アノーチャー(タイ人拉致被害者)について

 私がアノーチャーから聞いたところでは、まず、アノーチャーはタイでいい仕事がなかったためにマカオ(注・当時はポルトガルの施政下)に行ったそうです。当時ポルトガル人が経営していた浴場で働いたということです。そこで数か月働きました。その時、2〜3人の者が数度訪れて、「一緒に外に写真を撮りに行かないか」と頼まれたそうです。彼らはもうすぐマカオを離れるところだと言い、店のポルトガル人のボスはアノーチャーに「彼らと一緒に行ってくれ」と言いました。アノーチャーはその時、これはどこの国でも同じでしょうが、ボスの命に従わないのはよくないと思って、彼らと一緒に出かけたのです。

 彼らとアノーチャーは、昼は海岸で写真を撮りました。そして夕方に突然、この連中はアノーチャーを捕まえたのです。縛って、話ができないようにさるぐつわをはめた。そして注射を打ち、アノーチャーを、周りから見えないよう、どこか背の高い草が茂っている場所に寝転ばせました。

 そして連中は車で去って行ったのです。数時間後、車がまた帰ってきました。アノーチャーはどのぐらい時間が経ったか分からないといっていましたが、おそらく1〜2時間ぐらいと感じたそうです。

 アノーチャーは確か、あと2人か3人の女性がいた、と言っていました。ちょっとはっきり覚えていませんが、2人と言っていたと思います。

 それから連中は一緒にアノーチャーを担ぎ上げて運んで行き、そう高くない丘か山のようなところを越えて、農村の近くを通りました。農村がとても近かったから、アノーチャーはさるぐつわをされているわけですがウーウーとうめき声は出せるので連中はそれを恐れて、「もし少しでも声を出したら、殴って失神させるからな」と言ったそうです。とにかくその時、他の2人か3人の女性については分かりませんが、アノーチャーは連中の肩にかつがれて運ばれていったわけです。

 連中はその後、女性たちを船に乗せました。船はあまり大きなものではなかったそうです。そして船の下部に入れられたといいます。そこが彼女らの居場所でした。2〜3日船の上にいたところ、突然連中が船室に入ってきて、アノーチャーと他の女性たちに服を全部渡すように言いました。彼らは服を甲板に持って行って洗ったそうです。そして翌日、船が到着しました。アノーチャーは、船がどこに着いたのかは分からなかったのです。私は恐らく、清津ではなかったかと思います。

 連中は、そこからアノーチャーを平壌に連れて行き、ゲストハウスに連れて行きました。北朝鮮ではそこを招待所と呼んでいます。

 ある日、当局は彼女らを庭に集めました。そして一人ひとりを選抜しました。それでアノーチャーは私がいる部署に来ることになったのです。私の部署に来るように選ばれたのはアノーチャー一人だけだったと言っていました。

 それから数日後、アノーチャーは.別のアメリカ人の、脱走米兵のラリー・アレン・アブシャーと結婚しました。

 当局がアブシャーの家にやってきて、アブシャーに「これからアノーチャーと住め」と言ってきました。その時、アブシャーには朝鮮人の料理人がいました。アブシャーが私に言っていたのは、アブシャーは彼らに「嫌だ嫌だ、ここを離れたくない」と言いました。アブシャーにはこれからどこに行くことになるのかも分からなかったし、当局は相手を「外国人だ」と言っただけで、アブシャーはアノーチャーに会ったこともなかったのです。 当局は「我々はお前のためにこうしているんだ」と言ったそうです。

 そんなことがあって、アブシャーはアノーチャーと一緒の家に移り住みました。その家では2人には料理人がいました。もうキムチを作り終えた時期だったから、1980年11月の末か12月の初めだったかも知れない。

 この時期、私の住んでいた丘を下ったところに、ジェリー・ウェイン・パリッシュ(元脱走米兵)が、レバノン人の妻であるシハーム(レバノン人拉致被害者)と一緒に住んでいました。一か月ぐらい経ったら、当局はパリッシュとシハームを別のところに引っ越させて、アノーチャーとアブシャーを連れてきて私の近くに住まわせました。その時ひとみは入院していました。これが私とアノーチャーの出会いです。アノーチャーは私たちと1989年(パリッシュが病死する)まで一緒でした。約9年間アノーチャーは私たちと住んだのです(その後、アノーチャーはジェンキンスさんたちの住むアパートを離れ、ドイツ人と再婚したという)。


2. アノーチャーの家族について

 アノーチャーは自分の父、兄弟、非常に早く亡くなった母、それに、非常に若くして亡くなった姉について話してくれました。アノーチャーは自分の家族は大家族だったが、今は自分と兄だけが生きていると話していました。


3.ドナ(ルーマニア人拉致被害者)について

 彼女の父は、軍隊を追い出されるまでルーマニア軍の大佐でした。彼女の父は、かなり長い話があります。彼女の父親、この人はある連隊の司令官だったのですが、ある晩大きなパーティーに出席しました。彼女の父は将軍の妻とダンスをしました。そして将軍の妻に「外に行こう。私はあのドアから外に行くから、あなたはあちらから出て駐車場で会おう」と誘ったのです。将軍の妻はドナの父を平手で打った。するとドナの父は彼女を打ち返したのだそうです。

 こんなことが起こって、ドナの父は当局によって軍事大学の教官にされられました。学生たちは、連隊司令官が軍事大学の普通の教員に格下げになったとささやきあっていたそうです。それで彼は、ルーマニア軍に解雇を願い出る手紙を書いた。「こんな風にしてはいられない、元の部隊に戻らなくてはならない」と書いたのです。

 当局はこの願い出を受け入れて、ドナの父を解雇してしまいました。ドナの父は当局が自分を元のポジションに戻すものと思っていて、解雇にするとは思わなかったのです。これがドナが私たちに言っていたことです。

 自棄になって、共産党のスローガン、「ルーマニア共産党万歳」、「チャウシェスク万歳」とかを叫びました。そのせいで父親は当局によって、2年間監獄に入れられました。ドナは2年間だったと言っていました。その後家に戻ったそうです。

 当時ドナはイタリア人と結婚していました。このイタリア人は資本家で、非常な金持ちでした。ドナはイタリアに行きました。でも彼女は「イタリアでは自由がなかった」と私や妻や他のみんなに言っていました。ドナの夫は、彼女を家の外に行かせようとしなかったそうです。理由については、私には言えませんが、大体分かります。ドナの夫は彼女を離婚しました。ドナが流産したからです。休暇でルーマニアに帰った時、踊りに行って流産したのです。それで夫は離婚して、ドナに10年間十分に暮らせる金を与えました。ドナはこの金をもらって、イタリアの有名な芸術大学に通いました。卒業して芸術家になったのです。


4.シハーム(レバノン人拉致被害者)それに他の西洋人について

(レバノン人拉致被害者は、スパイ訓練施設に入れられ、そこで多くの西洋人女性や中東の女性を見たと証言していますが、シハームはその点について何か言っていましたか)

 シハームがスパイ訓練に行ったことがあるかどうか私は知りません。シハームとそれからもう1人ハイファという女性は、パリッシュ、ドレスノク(元脱走米兵)との関係で色々大変でした。ドレスノクが先に行ったのだと思いますが、シハームとハイファに会いに平壌に行きました。パリッシュは後から行きました。それからシハームとハイファの他にもう2人いました。私たちはこの残りの2人のどちらにも会ったことがありませんでした。

 私はシハームに次のように言われました。残りの二人のうちの一人は当局が私のために連れてきたのだ、と。でも私は「ヨーロッパ人と一緒にはならない」と言いました。この女性は背がとても低かったのですが、容姿は一番よかった。彼女の姉はその時、レバノンの駐クウェート大使だったと思います。彼女が、いつ北朝鮮に大使として赴任してきてもおかしくなかったわけです。それで当局はこの女性を恐れて、1年と少しでこの二人を国外に追い出してしまいました。それでこの二人は去っていきました。二人がスパイ訓練に行ったかどうかは、私には分かりません。
  
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国民大集会「もう我慢できない。今年こそ結果を!」
「もう我慢できない。今年こそ結果を!」。2月2日に家族会・救う会合同会議で決めた今年の運動方針です。 拉致被害者家族の高齢化が進み、「生きている間に被害者に会えないかもしれない」という言葉が出るようになっています。経過はすべて説明して頂くことはないと思います。しかし、今年中にぜひ結果を出して欲しいということが、家族会・救う会そして心ある日本人の心の底からの叫びだと思います
2014年4月27日午後2時午後5時 日比谷公会堂
東京都
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日比谷公園1-3