救う会全国協議会

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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

2. ルーマニア革命は「市民蜂起に便乗した宮廷クーデター」だった(2006/10/01)
-2 ケーススタディ
ルーマニア革命は「市民蜂起に便乗した宮廷クーデター」だった

惠谷 治(ジャーナリスト)

1989年の東欧民主化革命では、6月にポーランドにおいて「連帯」が選挙で勝利し
非共産党員が多数の内閣が成立したのに続いて、8月には東ドイツ市民が大量に亡命する
という「ピクニック事件」が発生し、10月にはハンガリーで共産党みずからが党を解体
した。そうした動きのなかで、11月9日に東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」が消
滅し、12月までに、東ドイツ、ブルガリア、チェコスロヴァキアにおいて共産党政権が
相次いで崩壊した。残る旧共産圏のなかでルーマニアは、鎖国のアルバニアとともに民主
化運動とは無縁の体制のように思われたが、12月半ばのティミショアラの暴動がブカレ
ストに飛び火すると、チャウシェスク独裁体制は劇的に終焉した。
北朝鮮の金正日独裁体制の崩壊がとりざたされるなかで、ルーマニア革命と同じ道をた
どるのではないかという論者のほとんどは、ニュース映像での印象からチャウシェスク独
裁体制は民衆暴動によって倒されたと誤解している。筆者は革命直後のルーマニアを1カ
月間取材し、チャウシェスク政権を崩壊させたのは市民蜂起だけではなかったことを実感
した。欧米ではルーマニア革命は「宮廷クーデター」だったという解説もあるが、私は本
稿の標題のように「市民蜂起に便乗した宮廷クーデター」だったと結論付けている。
北朝鮮の金正日体制がどのように崩壊するかは予測不能だが、その崩壊に備えるために
も、チャウシェスク体制がどのようにして崩壊したかを把握しておくことが重要だろう。
本稿はルーマニア革命の経過を詳細に再現し、北朝鮮と対比させながら分析するのが目
的であるが、先ずは共産党が支配していた当時のルーマニア現代史を概観することから始
めよう。
共産党政権時代のルーマニア
第2次大戦では枢軸国として参戦していたルーマニア王国の国境を越えて、ソ連軍が侵
攻したのは、1944年3月末のことだった。5カ月後の8月23日、国王ミハイ1世と
側近や軍人、既成政党などが戦争を終結させるために結束してクーデターを決行し、イオ
ン・アントネスク軍事政権を打倒して、ソ連軍が示した休戦条件を受諾した。翌9月、連
合国との休戦協定が成立すると、11月にはソ連の要求を受け入れ、民族農民党、自由党、
共産党、社会民主党からなる「国民民主ブロック」による政権が樹立された。45年3月
には、ソ連が後押しする耕民戦線のペトル・グローザを首班とする連立政権が成立し、共
産党は内相・法相・運輸相の重要な3ポストを獲得した。
第2次大戦終了後の45年11月の総選挙後、ルーマニア共産党のギョルゲ・ギョルギ
ュ=デジ書記長が副首相となり、共産党は4人を入閣させ、しだいに実権を握るようになっ
た。44年当時にはわずか1000人前後だった共産党員は、45年には22万人、47
年には71万人と急増していった。
1947年12月30日、グローザ政権による退位要求を受諾したミハイ国王が亡命し
たのにともない、王制は廃止され「ルーマニア人民共和国」の成立が宣言された。その年、ソ連軍の駐留に反対する市民運動が激化して逮捕者が続出しており、一説によれば、ソ連
駐留軍のヴァシレンスキイ司令官はミハイ国王に対し、「退位して国外に去らなければ、逮
捕者を処刑する」と脅迫しため、国王はやむなく退位したとも伝えられている。
1948年2月4日、グローザ政権はソ連と友好協力相互援助条約を締結し、ルーマニ
アはソ連の衛星国となった。ルーマニア共産党は社会民主党左派を吸収し、2月23日、
ルーマニア労働党と改名し、「人民民主主義体制」を確立することを宣言した。制憲議会選
挙で勝利した「人民戦線」が大多数を占める国民議会において、48年4月、ソ連憲法を
モデルとする新憲法が採択され、6月からは大企業の国有化が始まった。49年7月から
スターリン式の富農一掃と農業集団化が開始されたが、農民の抵抗にあって難航した(公式
的には62年に完了)。5カ年計画が51年から施行され、急速な工業化を推進するために、
民兵組織の導入による監視網が確立され、経済犯に対する重罰を定めるなどの新刑法が制
定された。
ソビエト化の過程で共産党内部では粛清が続発し、“国内派”だったギョルギュ=デジが
“ソ連派”を排して実権を握り、52年6月には首相に就任し、ルーマニアの「小スター
リン」と呼ばれるようになった。しかし、53年3月にスターリンが死去すると、ギョル
ギュ=デジはそれまでの政策を自己批判し、翌年、首相職に専念するとして党書記長職が改
められた党第1書記職をギョルゲ・アポストルに譲ったが、55年10月になるとギョル
ギュ=デジが復職した。フルシチョフによるスターリン批判後に起きた56年10月のハン
ガリー動乱後,ルーマニアはソ連軍の自国領からの撤退を粘り強く要請し、58年5月に
ソ連軍撤退を実現させた。
1960年代に入ると、ルーマニアは「自主路線」を強力に打ち出すようになった。6
1年6月、国家評議会が新設され、議長(国家元首)にギョルギュ=デジが就任し、イオン・
ギョルゲ・マウレルが後任の首相となった。ルーマニアは62年にソ連が提唱したコメコ
ン内の国際分業計画に反対するとともに、深刻化する中ソ対立に対しては中立の立場をと
った。そして、異質の共産国である中国やアルパニアと通商協定を結び、西側諸国やアメ
リカと政治・経済関係を緊密化するなど独自の多角外交を開始した。62年3月、首都ブ
カレストにあったスターリン像が撤去された。
1965年3月19日、自主路線の基礎をつくったギョルギュ=デジが死去した後、ルー
マニア労働党第1書記に選出されたのは、若干47歳のニコラエ・チャウシェスクだった。
国家評議会議長にはチヴュ・ストイカ首相が就任した。チャウシェスクは、65年7月の
第9回党大会で党名をルーマニア共産党に、党第1書記を党書記長と旧名を復活させ、8
月には新憲法を施行して国名を「ルーマニア社会主義共和国」と変更した。チャウシェス
クはギョルギュ=デジの路線を継承して西側との交流を続け、ワルシャワ条約機構を強化し
ようとするソ連の政策を批判するなど、前任者以上の強力な自主路線を展開した。
1967年12月、チャウシェスクは党機関と政府機関の一元化を決定し、自ら党書記
長と国家評議会議長を兼任した。北朝鮮ではその年の5月4日、党中央委員会の秘密総会
(第4期第15回総会)において「唯一思想体系」が確立され、続く6月28日の党中央第
4期第16回総会で“国内派(甲山派)”が粛清され、金日成独裁の基礎を確立しており、
チャウシェスクの独裁と軌を一にしている。
1968年の「プラハの春(チェコスロヴァキアの民主化運動)」を弾圧するため、8月
20日、ソ連軍を中核とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵攻した際、
チャウシェスクはソ連を非難して出兵せず、国軍をソ連国境に配置するとともに、ソ連軍
の介入に備えて「労農祖国防衛隊」を結成した。そして、ブカレスト中心部の共和国広場
で初めて市民を動員した大集会を開催し、チャウシェスクは市民の前で演説した。
「ソ連軍のチェコスロヴァキア侵攻は、欧州の平和、世界の社会主義の運命に対する
重大な錯誤かつ重大な危機であり、革命運動の歴史において恥じるべき瞬間である。
兄弟である社会主義国の内政に対する軍事介入は、いかなるものでも正当化はできな
い。私はソ連軍の一兵たりとも、我が祖国ルーマニアの地を踏ませない。片足たりと
も入れさせない」
共和国広場に面する共産党中央委員会の本部ビルのバルコニーで、チャウシェスクが絶
叫する姿は市民たちを熱狂させた。この集会で教訓を得たチャウシェスクは、その後は事
あるごとに「ソ連の脅威」を引き合いに出し、国民の一致団結を呼びかけるようになった。
この手法は、「米帝、日帝の脅威」を叫び続ける北朝鮮と同じである。ソ連に隣接するルー
マニアがソ連を非難することができたのは、ルーマニアが産油国だったため、ソ連に依存
しなくてもエネルギー源を確保することができ、独自の外貨獲得が可能だったからである。
1969年8月、ニクソン大統領がルーマニアを公式訪問したが、これはアメリカ大統
領による初めての東欧訪問だった。1970年代に入るとソ連とも活発な外交を展開する
一方で、ユーゴスラヴィアとの関係改善をおこなうなど多角外交は継続された。そして、
チャウシェスクは日本を含む西側諸国を訪問し多額の借款を得て、石油精製、石油化学、
製鉄などの大型プラントを建設し、工業化に邁進した。
こうしたなかで、1971年6月9日、チャウシェスクを団長とする党政府代表団が、
訪中後に北朝鮮を初めて訪問した。翌72年12月、北朝鮮の最高人民会議は社会主義憲
法を採択し、首相だった金日成は国家主席(国家元首)となった。ルーマニアでは、74年
3月、大統領制を施行してチャウシェスクが共和国初代大統領に就任し、国軍最高司令官
を兼任した。ルーマニアと北朝鮮は、同じ頃に名実ともに独裁体制を完成させている。
チャウシェスクは71年の訪朝で、金正日が中心となって改造した平壌市内の記念碑的
建造物と、大通りの両側に並ぶ同じようなアパートが続く景観に感動した。チャウシェス
クは自分の栄光の時代のシンボルとなる巨大記念建築物を建設することを決心し、ブカレ
ストの都市改造計画の一環として「カーサ・ポポルルイ(人民の館)」と称された巨大な宮殿
と「勝利大通り」がブカレスト市内で建設されることになったのだった。また、平壌での
集会やパレードにおいて、旗を振る制服の子供たち、一斉に唱和し拍手をする大群集など
に深く感銘したチャウシェスクは、教育、文化、芸術において「社会主義的な意識の重要
性」を痛感し、帰国直後の71年7月にテーゼを発表し、ルーマニアの「文化革命」が始
まったのだった。以後、ルーマニアと北朝鮮の関係は、急速に緊密化していく。金日成は1956年6月
の東欧・ソ連の歴訪の際に、ルーマニアを訪れたことがあったが、75年5月、金日成は
東欧・北アフリカの歴訪の途上の5月26日、19年ぶりにルーマニアを訪問し、友好協
力条約を締結した。3年後の78年5月20日、チャウシェスクが北朝鮮を答礼訪問し、
3日間滞在した。79年8月には北朝鮮の李鍾玉首相がルーマニアを公式訪問。80年5
月に死去したユーゴスラヴィアのヨシプ・ブロズ・チトー大統領の葬儀に参列した金日成は、
その帰途にルーマニアを訪問し、4日間滞在した。82年4月17日、チャウシェスクが
北朝鮮を訪問。84年5月から金日成は1か月半かけてソ連・東欧を歴訪したが、最終訪
問国はルーマニアで、6月18日に到着して、チャウシェスクと会談した。翌85年10
月12日から15日まで、チャウシェスクが北朝鮮を訪問し、金日成と2回会談した。8
8年には9月にコンスタンティン・ダスカレスク首相の公式訪問に続いて、10月18日
から1週間、チャウシェスクが訪朝した。これがチャウシェスクと金日成の最後の対面と
なった。旧共産圏のなかで、チャウシェスクほど金日成と個人的に親密になった独裁者は
いない。
チャウシェスクの夫婦独裁
チャウシェスクは政治・軍事・イデオロギーなど、あらゆる分野の最高決定機関の議長
を兼務しており、1972年には経済政策の最高機関として「経済社会開発最高会議」を
創設した。そして、夫人、息子、親類を要職に据えるというネポティズム(縁故主義)と個
人崇拝によって、「一国社会主義から一家社会主義へ」と酷評された独裁を確立した。
独裁者ニコラエ・チャウシェスクは1918年1月26日、首都ブカレストの西100
km ほどのオルト県スコルニチェシュティ村の貧農の家庭で生まれたとされている。ルーマ
ニア紙『テレオマヌエル・リベル』(90年1月19日付)は「チャウシェスクの父は、名
前がアンドルツァというジプシーであり、母はアレクサンドリーナといい、タタール系ジ
プシーだった」と報じた。その記事によれば、出生地はスコルニチェシチ村近くのジプシ
ー部落タルタライだったとなっている。チャウシェスクの母親の名前は、公式文書では「マ
リ」であり、記事の信憑性は不明である。チャウシェスクは金日成よりも6歳年下だった。
チャウシェスクはスコルニチェシュティ村の4年制小学校を修了した後は、上級学校に
は進んでおらず、文章もまともにかけなかったという証言が多い。若い頃は靴職人だった
といわれ、89年の市民蜂起の際、市内各所の壁面に「靴屋打倒」という落書が見みられ
たが、市民たちはそれが「チャウシェスク打倒」という意味であることを知っていた。
「彼は非常に抜けめのない人物で、いわば農民のずる賢い知恵を身につけており、記
憶力が大変に優れ、さらに頭の働きは素早く、知的反応を引き起こすものをもってい
た。<略>最初はまったく知識がなくても、独学の人につきものの欠点はあるが大急
ぎで学ぶ。<略>肉体的な欠陥(背が低く、醜男)と不器用さ(技術をものにしたこと
がない)の両方を原因とするコンプレックスに悩んでいたのではないかと思われる」
チャウシェスクを知る駐米大使や国連大使を歴任した反体制派活動家のシルヴィュ・ブルカンは、自著『ルーマニア・二つの革命』のなかで、チャウシェスクの人物像を以上の
ように書いている。
チャウシェスクはルーマニア共産主義青年同盟員だった1946年、2歳年上のエレ
ナ・ペトレスクと結婚した。妻のエレナは1916年1月6日、ドゥンボヴィツァ県の寒
村プレトレスティの農民の娘として生まれ、若くしてブカレストに上京し繊維工場の工員
となった。共産主義青年同盟を経て共産党に入党したエレナは、戦時中の1944年に共
産主義青年同盟中央委員となり(28歳)、1965年に夫が党第1書記に就任すると、党
中央委員となった(49歳)。1973年6月の党中央委員会総会において、エレナはソ連
の党政治局にあたる党政治執行委負会の執行委負に選出された (57歳)。74年11月、
党政治執行委負会常務局が新設されると、エレナは77年1月、党執行常務委員となり、
79年に科学技術全国評議会議長に就任、80年3月には第1副首相に就任すると(64
歳)、夫婦独裁制が始まった。
「エレナの最大の才能は、自分が化学についてほとんど無知であることを隠したこと
だ。彼女は『国際的な評価を得た学者』になったが、ルーマニアの化学者と知識を分
け合ったことも、化学について講義したこともない。<略>ニコライと違い、エレナは頭が悪かった。さらに、自分に関することはすべてでっち上げ(地下活動、博士号、
科学的業績はすべて作られたもの)であることを知っていただけに大変な不安を感じ
ており、夫よりも意地が悪かった」
前出のシルヴィュ・ブルカンは、チャウシェスクの妻を以上のように分析している。
金日成の後妻である金聖愛が党中央委員に選出されたのは、1970年のことで(46
歳)、その翌年に朝鮮民主女性同盟の委員長に選出されたが、職務的にはそれ以上の地位に
就いていない。それは継母を嫌悪する金正日がいたためである。しかし、それでも北朝鮮
で夫婦独裁制となっていた一時期はあったのである。
チャウシェスクには年子の子供3人(2人の息子と娘)がいた。長男のヴァレンティン(1
949年生まれ)はロンドンの王立科学技術大学に留学した核物理学者で、ヴァレンティン
は73年から79年までルーマニア原子力研究所の上級@研究員として働き、ジュネーヴに
長く滞在した経験がある。ヴァレンティンは両親の反対を押し切って父親の政敵である娘
で美人のヨルダナ・ボリラと結婚したため、勘当同然の状態だった。しかし、母親の圧力
に屈して88年にヨルダナと離婚して、党中央委員会に勤務するようになった。娘のゾエ
(1950年生まれ)は、ブカレスト大学で数学を学び、1976年に博士号を取得した後、
国際数学理論研究センターの研究員となっていた。ゾエが26歳のとき、恋人だった新聞
記者と駆け落ちしたが、4日後に秘密警察に隠れ家を発見され、その後、恋人のミハイ・
マテイは外交官としてアフリカに追放されてしまった。末っ子の次男のニク(1951年生
まれ)は、1982年12月に最年少(32歳)の党中央委員に選出され、ルーマニア最高の
栄誉である「第一級労働勲章」を授与された。ニクは共産主義青年同盟の第1書記、社会
主義的民主主義統一戦線の執行委員、国民議会の書記、青年問題担当相などを歴任した。
チャウシェスクの3人の子供のうち上の2人は学究派であり、チャウシェスクは末っ子のニクに期待した。
「少年時代は本を読むのを見たことがないと、ヴァレンティンとゾエにばかにされた。
でも両親がその埋め合わせをしてくれた。<略>14歳のときクラスメートをレイプ
して一人前になったとほめられ、1台目の自動車をもらった。16歳で酔っぱらいの
暴れん坊となり、ブカレストじゅうを自動車事故とレイプで騒がせた」(『赤い王朝』
86頁)
以上は、ルーマニア秘密機関「対外情報局(DIE)」の副長官で、アメリカに亡命した
イオン・ミハイ・パチェパ中将の証言である。
ニクはラスベガスでの賭博場で巨費を散財するたびに、母親のエレナがその後始末をし
ていたという。87年10月、ニクは共産主義青年同盟の第1書記を辞任しており、革命
直前の89年11月に開かれた第14回党大会では、党政治執行委員会の候補委員だった
ニク(39歳)が、党執行常務委員に昇格して「後継者」の地位に就くのではないかと噂さ
れたが、さすがのチャウシェスクも文字どおりの愚息を、後継者に推挙することはできな
かった。
北朝鮮の場合、金日成の長男である金正日は、72年に「唯一後継者」の秘密決定がな
され(30歳)、73年に党書記、74年に党政治委員会委員(32歳)という権力中枢に入
った後、80年の党大会で党中央委員に選出されるという公式的には変則的な形になって
いる(38歳)。また、金日成の娘で金正日の妹である金慶喜は金日成総合大学卒業後に、
両親の反対にもかかわらず意中のハンサムな同級生だった張成沢と結婚を成就させ、夫と
ともにモスクワに留学。88年に党中央委員に選出され(42歳)、95年に党軽工業部長
という権力中枢部の高位についている。金正日の異母弟である金平一はハンガリー、フィ
ンランド、ポーランドの大使を歴任、もう1人の異母弟の金英一はドイツ利益代表部参事
官だった(2000年10月死亡)。
チャウシェスクには兄1人、弟4人、妹1人がいた。兄のマリンはウィーンに駐在し、
チャウシェスク夫妻の銀行口座を管理していた(チャウシェスク銃殺後に自殺)。チャウシ
ェスクのすぐ下の妹マリアナは、1950年にマネア・マネスクと結婚し、赤十字国際評
議会副会長、婦人評議会委員などを歴任した。夫のマネア・マネスクは首相、党執行委員、
国家評議会副議長、経済社会開発最高評議会副議長など権力中枢の要職を歴任した。弟の
イリエは国防次官兼国軍高級政治委員会議長、兄と同名で内務省国家保安部(秘密警察)の
幹部であるニコラエの2人は、83年にそろって少将から中将へと昇進した。3人目の弟
のイオアンは農業技師出身で、87年以降は国家計画委員会第1副議長を務めていた。最
年少の弟フロレアは、党機関紙「スクンティア」記者だった。エレナの兄のギョルゲ・ペ
トレスクは経済社会開発最高評議会の交通・通信部会長を務めていた(87年7月死去)。1
986年の第13回党大会において、弟のイリエ国防次官、長男ニクの妻ポリアナ・クリ
テスクの2人は、肉親であるというだけで党中央委員に選出された。
金日成の兄弟は3人で、すぐ下の弟は解放以前に死んでいるが、末っ子の金英柱は党政
治委員、国家副主席、最高人民会議名誉副委員長を歴任している。父方の従弟の金昌柱は
党中央委員で政務院副総理、従妹の金信淑は社会科学院副院長や朝鮮歴史博物館長を務め、
夫の楊亨燮は党政治委候補委員で最高人民会議議長を務めた後、最高人民会議常任副委員
長となった。もう1人の従妹の金貞淑は党中央委員候補で朝鮮社会主義青年同盟副委員長、
政府機関誌『民主朝鮮』の責任主筆、最高人民会議外交委員会委員を歴任、夫の許棪は党
政治委員(91年5月死亡)、母方の従弟の康賢洙は党中央委員で平壌市党書記だった(20
00年9月死亡)。周知の通り、娘婿の張沢成は党組織指導部第1副部長となり、金正日の
異母妹の金敬珍は朝鮮職業同盟副委員長、夫の金光燮はオーストリア大使としてウィーン
に赴任している。
ちなみに、チャウシェスクは実兄のマリンに国外の銀行口座を管理させるためウィーン
に常駐させていたが、「主席資金」と呼ばれた金日成の資産を預金していたスイス銀行の口
座を管理していたのは、ジュネーヴに駐在する李哲大使だったが、李哲が縁戚という情報
はない。李哲大使は金正日政権になっても、その地位にとどまっているほど信頼されてお
り、李哲は金日成一家の金庫番として秘密を握る重要人物であり、崩壊の混乱の際には自
殺させないように懐柔する必要があるだろう。
独裁体制を支える暴力装置は、秘密警察と強制収容所であり、ルーマニアには秘密諜報
組織「対外情報局(DIE)」とともに秘密警察組織である「国家保安部(セクリターテ)」
があった。チャウシェスクは1972年に対外情報局(DIE)を直轄機関とし、セクリタ
ーテを教化して、党、政府、軍の内部に反対派の存在を許さない強力な監視体制を作り上
げた。北朝鮮においては他の共産圏のシステムとは異なり、前者は「3号庁舎」と呼ばれ
る労働党の調査部などが相当し、後者は国家政治保衛部である。ちなみに、ルーマニアの
内務省に相当するのは、人民保安省(旧社会安全部)である。
ルーマニアの強制収容所については、日本ではまったく知られていないが、ルーマニア
革命直後に現地取材した筆者は、その全容を知ることができた。ルーマニアの強制収容所
は、北朝鮮で管理所、教化所、教養所と3段階になっているのと同じく、強制収容所、中
核収容所、短期収容所の3段階に分かれていた。ルーマニアの強制収容所リストを本邦初
公開のデータとして示したいところだが、紙面の関係で数値だけにしておく。強制収容所
は北部に3カ所、ドナウデルタ地方に13カ所、首都近郊に5カ所の計21カ所あった。
中央収容所は全土で19カ所、短期収容所は6カ所で、強制労働のための収容所は、総計
45カ所も存在していたのである。
革命前夜となったティミショアラ事件
ルーマニアは、1970年と75年の大洪水、77年の地震と相次ぐ自然災害にみまわ
れたが、1970年代は重工業や貿易では辛うじて経済成長を維持していた。しかし、7
7年にルーマニアは石油輸出国から輸入国に転落し、1980年代に入ると貿易赤字が拡
大し、対外債務は100億ドルを超えるまでに急増した。そうした状況のなかで、1975年から84年まで黒海・ドナウ運河建設(約32億ドル)、84年からは首都大改造計画
の一環としての共和国宮殿建設(約16億ドル)などの巨大事業が進められた。それを可
能にしたのは、強制収容所の政治犯たちの労働力だったが、国民も食糧、燃料、電力にこ
と欠く窮乏生活を強いられた。一方で、兵力を確保する目的で、避妊は禁止され、多産が
奨励される法律が制定された。
ルーマニアの人口は約2300万人で、北朝鮮とほぼ同じである。国民の内訳はルーマ
ニア人が70%、マジャール人(ハンガリー人)が27%で、その他、1.2%のロマ人(ジ
プシー)、0. 3%のドイツ人、0.2%のスロヴァキア人などの少数民族がいる。
チャウシェスクは「大ルーマニア」構想を掲げ、マジャール系やドイツ系の住民が多数
を占めるルーマニア中央部のトランシルヴァニア地方に対し、「トランシルヴァニアはルー
マニア人に先住権がある」と述べ、生産を高めるためという理由で、農地整備のために8
000もの村落を破壊し、農民を強制移住させるという「農村再編計画」を、88年3月
に発表した。
その1年後の89年3月、古参共産党員であるギョルゲ・アポストル(元党執行委員・労
働組合議長)、アレクサンドル・ブルラデアヌ(元党執行委員・国家計画委員会議長)、コル
ネリウ・マネスク(元外相・国連総会議長)、コンスタンティン・プルブレスク(党創設以来
の党員)、グリゴレ・ラチェアヌ(共産党長老)、シルヴィュ・ブルカン(元「スクンティア」
編集長代理)の6人は、チャウシェスク宛てに公開書簡を送り、その内容が自由ヨーロッパ
放送で紹介された。そのなかで6人は、例えば次のような事実を指摘している。
「農村再編計画と農民を3階建てアパートに強制移住させることは、個人の財産の権
利を保証している憲法第36条に違反する。ルーマニア国民が外国人と接触すること
を禁止した法律は、立法機関で採決されておらず、公表されもいないので、いかなる
法的拘束力もない。にもかかわらず、国民は解雇、迫害、逮捕の威嚇を受け、そのよ
うな処分が実施されている」
トランシルヴァニアの西に隣接するバナート地方の中心都市、ティミショアラにある小
さな教会のマジャール人牧師ラースロ・テケシュは、89年7月、カナダのテレビ局のイ
ンタビューを受けた。テケシュ牧師は、ルーマニアのマジャール系住民が置かれている苦
境について語り、そのインタビューがハンガリーで放映され、大きな話題となった。その
結果、ルーマニア当局はテケシュ牧師を、北部の教会に追放することを決定した。
隣国のハンガリーでは、8月19日、オーストリアのブルゲンラント州に食い込むショ
ブロンにおいて、西ドイツ亡命を希望する1000人ほどの東ドイツ市民が集会を開いた
後、一斉に国境を越えるという前代未聞の事件が起こった。この集団亡命は「ピクニック
事件」と呼ばれているが、この事件が「ベルリンの壁」崩壊のさきがけとなった。その後、
ハンガリー、チェコを経由して西ドイツに亡命する東独市民が激増し、9月11日、ハン
ガリー政府はオーストリアとの国境を開放したため、数万人の東独市民がハンガリーを経
由してオーストリアへと越境し、西ドイツに亡命した。9月18日、ハンガリーでは複数政党制や大統領制の導入が決定され、10月6日から3日間開催されたハンガリー社会主
義労働党の臨時党大会で、共産主義放棄を宣言し、党名は「社会党」に変更された。そし
て、10月18日、憲法改正により「党の指導性」が憲法から削除され、国名は「人民共
和国」から単に「共和国」に改称された。ハンガリーは東欧民主化革命のモデルとなった。
こうした激動する情勢のなかで、ルーマニア当局は11月17日、ハンガリーとの国境
を事実上閉鎖し、20日からルーマニア共産党第14回党大会が開催された。すでにベル
リンの壁は崩壊していたが、チャウシェスクは党大会において東欧の民主化運動を非難し、
最終日の24日、書記長6選を果たしたのだった。
ティミショアラのテケシュ牧師は北部に強制移住させられる前に、ルーマニアの貧困と
マジャール系住民に対する抑圧について、国際社会に救援を求める発言を自分でビデオに
収録した。そのビデオテープは信者によって、閉鎖されている国境を密かに越えてハンガ
リーに持ち出され、ハンガリー国営の「マジャール・テレビ」が再び、テケシュ牧師の訴
えを放映した。
同じような秘密ルートを6時間も歩いて、11月28日、金メダリストの体操選手、ナ
ディア・コマネチ(当時28歳)がハンガリーに密かに脱出して、アメリカに亡命した。コ
マネチは現役を引退してからは、チャウシェスクの次男ニクの執拗で強引な手段によって、
半ば愛人のような関係を強いられており、その生活に耐えられなくなったコマネチは、ア
メリカ人の協力を得て決死の国外脱出を敢行したのだった。
テケシュ牧師が強制的に転任させられる期限である12月15日の数日前から、牧師を
守ろうとする信者たちは教会に泊まり込んでいたが、当日はさらに多くの信者や市民が集
まって教会を取り囲んだ。夜になっても信者や市民たちは包囲を解かず、出動した治安警
察部隊に激しく抗議し、やがて市内は騒乱状態に陥った。
地方都市の反体制派牧師が治安当局に連行されるという小さな事件が、チャウシェスク
独裁を終焉させたルーマニア革命の烽火となった。
翌16日になると、大勢の市民たちが市内中心部に集まり、共産党ティミショアラ県委
員会本部がある市役所に乱入して、書類を破り、チャウシェスクの肖像画を窓から投げ捨
て、街路で火をつけたりした。その報告を受けた党政治執行委員会は緊急会議を招集し、
チャウシェスクは治安警察部隊に実弾を供給していなかったとして、ヴァシレ・ミレア国
防相とトゥドル・コスタニク内相、ユリアン・ブラッド秘密警察長官(内務副相)の3人を
厳しく叱責し、「諸君が空砲を撃つとは思わなかった。あれではにわか雨と同じだ。党の建
物に侵入した者を生きたまま帰すな。フーリガン(ならず者)たちはただ殴るだけではなく、
殺すべきだ。日曜日の説教のようなやり方では敵をやつけることは出来ない。焼き殺すの
だ」と怒鳴った。そして、権力ナンバー2である第1副首相のエレナは「フーリガンを射
殺しなさい! やつらを殺して、地下牢にぶち込むのよ。誰一人として二度と陽の光を見さ
せるな !」と金切り声を上げたことが、議事速記録によって明らかになっている。
暴動は翌日も収まらず、商店のガラス窓は割られ、本屋から持ち出されたチャウシェス
クの著書が燃やされた。鎮圧にあたった治安警察部隊の装甲車が走り回るなかで、遂に逃
げ遅れた子供や老人たちが轢き殺されるという事態となった。その日、チャウシェスクは共産党地方委員会の幹部たちと電話による会談をおこない、
次のように語った。
「すべては、改革派牧師を移住させることから始まった。今、すべての司令官をティ
ミショアラに送った。数分前、部隊とともに着いたコマン同志と話して、戦闘用の武
器弾薬を供給した。警告に従わないものは誰でも・・・非常事態だから。撃てという
命令を出した。1時間以内にティミショアラを正常に戻すように。将校を呼んで命令
せよ」
この発言に対し、コマン将軍は次のように返答した。
「チャウシェスク同志、報告します。3列の部隊がティミショアラに入り、町の中心
部に行くようになっています。撃つように命令しました。あなた様の命令を実現しま
す」
ティミショアラに到着した内務省秘密警察、国境警備隊、治安警察の応援部隊は、その
日の夕方、市内中心部のオペラ劇場付近に集まっていた市民たちに対して、初めて自動小
銃や装甲車の車載銃などで発砲した。多数の死傷者が出たが、その数は判明していない。
筆者が現地で遺体埋葬状況を調べた限りでは、報道されたような1000人単位の大量の
死者は出ておらず、せいぜい100人前後のように思われた。
12月17日、ルーマニア政府はハンガリーとの国境を完全封鎖し、翌日にはユーゴス
ラヴィア、ブルガリア、ソ連との全ての国境を閉鎖し、外国人の入国を禁止した。
治安部隊が発砲して多数の犠牲者が出たというティミショアラの情報は、直ちに国外に
流れ、VOA(アメリカの声)などによって全世界に伝えられた。しかし、ルーマニア国内
では事件についての報道はなく、首都ブカレストは表面的には平穏だった。しかし、VO
Aなどを隠れて聞いている市民も多く、口コミで事件が伝わるのは時間の問題だった。
自分の権力を信じていたチャウシェスクは暴徒鎮圧の指示を命じると、18日に予定さ
れていた通り、イランへの公式訪問に旅立った。しかし、通常は外遊に同行する妻のエレ
ナは国内にとどまり、第1副首相として流動する情勢に対処した。その頃からルーマニア
国内でも、ティミショアラで流血事件があったというニュースが広がり、アラド、シビウ、
クルジュなどでも暴動が起きており、情勢が緊迫してきたため、19日にはルーマニア全
土に非常事態宣言が布告された。
12月20日、イランから帰国したチャウシェスクは情勢報告を受け、帰国当日の深夜
11時からという異例の時間帯に、国営ルーマニア放送のテレビを通じて演説をおこない、
ティミショアラ事件について説明した。
「国軍の基地がフーリガンに攻撃されたが、国軍は大変我慢強く挑発にのらないよう
にしていた。しかし、軍はそれに応えざるをえない状況に迫られた。軍はやるべきこ
とをやったまでである。国軍の基地を攻撃され、発砲せざるをえなかったのだ」
チャウシェスクはティミショアラの市民や犠牲者たちを「フーリガン、外国のスパイ」
と非難したため、国民からより強い反発をかう結果となった。
市民蜂起による革命の勃発
翌12月21日正午、首都ブカレスト中心部の共和国広場で、「チャウシェスク万歳!」
のプラカードや横断幕をもった労働者約10万人が動員された市民集会が開催され、全国
にテレビ中継された。「プラハの春」を戦車で踏みにじったソ連を非難する市民集会が、共
和国広場で初めて開かれてから21年が過ぎていた。共和国広場では4月12日にも、市
民集会が開催されていた。そのときチャウシェスクは、3月末までに対外債務を完済した
ことを高らかに宣言し、「国民的な大勝利」と自画自賛したが、ルーマニア国民は「飢餓輸
出」によって貧困のどん底で喘いでいたのである。
それから8カ月後の集会では、ブカレスト市第1書記や集会に参加した工場や企業の支
配人などが共産党本部のバルコニーからチャウシェスク称賛演説をおこなった後、12時
半頃、マイクの前にチャウシェスクが現われた。チャウシェスクは「この大集会を組織し
てくれた人びとに感謝する」と語り始めたが、演説が5分ほど過ぎたとき、集会の後方、
共和国宮殿のホテル・アテネパレス寄りのあたりで、爆竹のような炸裂音が2度にわたって
鳴り響いた。
破裂音はバルコニーまで届き、チャウシェスクは演説を中断し、何ごとが起きたのかと
困惑した表情で広場の様子を見ていた。テレビ中継用のカメラを乗せていたやぐらは、算
を乱して前方のバルコニーのほうに押し寄せた群衆の圧力で不安定になり、中継映像は大
きく揺れ、視聴者を驚かせた。チャウシェスクは混乱を沈静化させようと、「同志たち、静
かに」と呼びかけた。その直後、中継は突然中断された。しかし、3分後に中継は再開さ
れ、チャウシェスクは気を取り直して演説を続行し、最低賃金の引上げや乳児手当の増額
などを約束して、15分ほどで演説を切り上げた。チャウシェスクがエレナとともに建物
のなかに姿を消すと、テレビ中継は終了した。
「野次を始めたのは誰か。最大限のきめ細やかさでこの問題を調査した結果、14歳
と16歳の職業学校生ということが分かった。たしかに、画一性と屈従の40年間に
教育され、大きくなった大人にはそれなりの用心や計算なしには考えられないほど危
険で、まったく無責任な行動である」
前出のブルカン元国連大使は、以上のように書いており、「100パーセント自然発生的
なものだった」と断言し、爆発音には言及していない。一説によれば、労働者風の男が爆
薬を2度爆発させたが、セクリターテ(秘密警察)によって、その場で射殺されたという
が、確認できる他の情報がない。恐らくは、2人の少年が面白半分に、中国制の爆竹を鳴
らしたのだろう。
広場では「ティー、ミー、ショーアラ」というリズミカルな合唱が自然に沸き起こり、
やがては「チャウシェスク打倒」の叫び声となり、「目覚めよ、ルーマニア」という愛唱歌が広場に響きわたったという。
「会場から駆け出した人々は、ヴィクトリア通りからゲオルゲ・ゲオルギィユ・デジ
通りを通って、ニコラエ・バルチェスク通りで集結した。12月13日通りやアカデ
ミー通りを通ってニコラエ・バルチェスク通りに駆けて来た人々もこれに加わった。
ニコラエ・バルチェスク通りに集結した人々は、学生、青年が中心で、数百人の集団
であった。この一団を核に市民や周辺の企業の労働者が加わり、またたく間にニコラ
エ・バルチェスク通りは人で埋まり、やがてマゲール通りからロマーナ広場まで、人
で埋まった」
共和国広場近くのホテル・コンチネンタルの2階に事務所を構えていた伊藤忠商事の松
丸了ブカレスト事務所長は、集会終了直後の様子を以上のように記録している(『ルーマニ
ア革命』49頁)。
付近にはもう一人の日本人目撃者がいた。ブカレスト在住の大学講師、佐々誠之助氏で
ある。
「時計は午後0時45分を指していた。同時刻に警官隊50人が自動車から降り、デ
モ隊の前に横一列に並び、デモ隊と対峙した。警官隊は盾と棍棒を持っていたが、デ
モ隊には攻撃をしなかった。デモ隊は後退しはじめ、警官隊は前進した。両者を取り
囲むように丸腰の兵隊が彼らを取り囲んだ。その時、腹に響くように大砲の空砲がズ
ドン、ズドンと5発撃たれた。その2、3分前に空砲が1発撃たれていた。午後の0
時55分であった」
ニコラエ・バルチェスク通りとギョルゲ・ギョルギュ=デジ通りが交差する大学広場に集
まった青年たちは、青黄赤の三色旗の中央に描かれたエンブレムを切り取った国旗を持っ
ており、「独裁者を倒そう!」、「自由を!」、「非暴力!」と叫んだ。
このデモ鎮圧のため招集された党政治執行委員会で、チャウシェスクはミレア国防相に
対し、暴徒への発砲を命じた。しかし、「国軍は人民を守る軍隊であり、人民には発砲でき
ない」とミレア国防相が命令を拒否すると、チャウシェスクは激怒して、椅子を蹴って部
屋を出ていったことが、裁判調書から判明している。
チャウシェスクは再び地方党委書記たちと電話会議をおこない、暴徒に対して最大限の
弾圧をおこなうよう指示した。メへディンツィ県党書記の自宅に残されていたチャウシェ
スクによる電話指令のメモは、次のような内容になっていた。
「すべての国民は強く団結し、武器をもって立ち上がらなければならない。すべての
党員と国民は、深刻な脅威に直面しているこの国の制度を守らなければならない。こ
の方針に反対する者は一掃されなければならない」
首都ブカレスト中心部には1万人以上の市民が集まっており、午後3時ごろ戦車や装甲
車が共和国広場周辺に到着し、ヴィクトリア通り、アカデミー通り、12月13日通りから、共産党本部に突進しようとしているデモ隊を阻止するように配置された。
「ヒュッ、ヒュッという、空気をつんざくような音が聞こえた。ドーン、ドーンと、
爆弾が破裂するような音が2度した。ホテルのメイドが十字を切りながら事務所のな
かに入ってくるなり、叫ぶ。
『青年が撃たれた』
ホテル・ネゴエの中へ、撃たれた青年がひきずりこまれていった。ホテルの前には
戦車がかまえている。そのホテルの前の路上に、逮捕された数人の青年が腹ばいにさ
せられている」(『ルーマニア革命』51頁)
冬のルーマニアは、4時過ぎになると日が暮れ始める。5時頃に、大学広場周辺にも戦
車が到着し、暴徒鎮圧用の放水車も配置された。解散しないデモ隊を蹴散らすため、7時
頃、戦車が動き始め、放水車も激しい放水を繰り返した。8時半過ぎから治安部隊による
激しい威嚇射撃も始まった。
「[深夜]12時を過ぎたとき、ついに治安部隊が動いた。戦車が機銃を乱射しながら
猛烈なスピードでデモ隊に向かって来たのだ。銃弾は広場にある建物、国立劇場やイ
ンターコンチネンタルホテルの壁に当たり、バリバリという音が耳をつんざいた。銃
弾に襲われた人々がバタバタと倒れている。そして、次の瞬間、恐ろしい光景が目の
前に繰り広げられた。戦車、そして並行して走って来た装甲車が次々に人々をなぎ倒
していったのだ。逃げ遅れた人は、そのまま押し倒されて戦車や装甲車に巻き込まれ、
下敷きになっていた。路上には無数の死体がこがっている。多くはデモ隊の先頭に立
って治安部隊と対峙していた20歳前後の若者だ」
その殺戮を50メートルほどのところで目撃したというルーマニア人は以上のように書
いている(ダン・チョバヌ、智片通博共著『この目で見た政権の崩壊』70頁)。この虐殺
を実行したのは、内務省秘密警察でチャウシェスクの弟のニコラエ・アンドルツァが校長
を務めるバニャサ士官学校の学生で構成された特殊部隊だった、とブルカンは自著のなか
で書いている。
その後、大勢の警察官がトラックやバスで現われ、大学広場に残っている者を拘束する
と同時に、死体をトラックで運び去った。その後、放水車によって広場における虐殺の痕
跡は洗い流されてしまった。外気温は零度以下だった。
その夜、チャウシェスクはプリマヴェリ大通り50番地の邸宅でアルバムを眺め、エレ
ナはフランスやアメリカの音楽を聞いていた、と仏紙『ル・フィガロ』は伝えているが、
翌朝のブカレストの様子は、チャウシェスク夫妻が出勤できるような状況ではなく、党本
部で夫妻は幹部たちとともに夜を過したと思われる。
チャウシェスク逃亡と手際のいい救国戦線評議会の成立
12月22日の朝、党政治執行委員会が開かれ、チャウシェスクは出席者に対して「ミ
レア国防相は自殺した」と告げたが、仏紙『ル・フィガロ』によれば、チャウシェスクは秘密警察の警護責任者であるニャゴエ大佐にミレア国防相の暗殺を命じたという。
その日は春を思わせる暖かな陽気となり、大勢の市民が再び中心部に続々と集まり、共
和国広場は再び群衆で埋めつくされた。朝から広場上空を飛んでいたヘリコプターから、
チャウシェスク体制を維持するように、という宣伝ビラが撒かれた。
午前10時50分、国営ルーマニア放送は「憲法第75条第14項に基づき、ルーマニ
ア大統領はルーマニア全土に非常事態を宣言する」と発表、続いて「ミレア国防相はルー
マニアの独立と尊厳に対する裏切り行為を働き、自殺しているのが発見された」と報じた。
午前11時過ぎ、共産党本部のバルコニーに、チャウシェスクが2人のボディガードを
伴って姿を現わした。チャウェスクはまだ事態を把握していないのか、市民たちを説得し
ようとメガホンで何かを語り始めたが、群衆の叫び、ヘリの騒音などで声は広場には届か
ず、群衆は身の回りにあるものを手当たり次第、チャウシェスクに向かって投げはじめた。
群衆の罵声を浴びながら、チャウシェスクは建物のなかに消えると、広場では国民を鼓舞
する愛唱歌「目覚めよ、ルーマニア」の大合唱が轟いた。
その頃、大学広場の東にある通りに待機していた戦車から白旗が掲げられ、国軍兵士た
ちが市民に合流する意思を明らかにした。ミレア国防相の死後、ヴィクトル・スタンレス
ク将軍を責任者とし、エフティメスク将軍が副責任者を務める作戦指揮グループに、軍の
指揮権が与えられていたことが、空軍のギョルゲ・ルス司令官の証言で明らかになってい
る。国防相の自殺という発表を受けて、陸軍は暗殺と判断し、午前中にはチャウシェスク
に叛旗をひるがえすことを決断したものと推定される。国軍の態度の変化を知った多数の
市民や労働者たちは、郊外からも続々と市内中心部に押しけていた。
ブカレスト郊外のオトペニ国際空港近くにある空軍基地「フロティーラ50」には、大
統領専用機と大統領専用ヘリコプターが常にスタンバイの状態で駐機していた。空軍指揮
所にいたルス司令官は、10時45分までに、戦闘態勢を整えた300人の空挺兵を移送
する命令を受領していた。その後、大統領専用の仏製ヘリコプター「ドーファンSA36
5-202」2機とソ連製大型輸送ヘリMil17 の2機を共産党本部に派遣せよという緊
急指令を受けとった。大統領専属パイロットであるヴァシレ・マルツァン中佐は、11時
30分、緊急発進命令を受け、クルー2人とともに共産党本部に向かって飛び立った。し
かし、大勢の市民が共産党本部を取り囲んでいたため、地上に着陸することができず、マ
ルツァン中佐は共産党本部の屋上にヘリを着地させた。11時40分のことである。
臨時の国防相代理となったヴィクトル・スタンレスク将軍に伴われて屋上に現われたチ
ャウシェスク夫妻が、大急ぎで駐機しているヘリに乗り込む際、見送るスタンレスク将軍
に対してエレナが次のように告げたことが語り草になっている。
「ヴィクトラシュ(スタンレスク将軍の愛称)、子供たちの面倒をみてね」
午後0時10分、チャウシェスク夫妻、権力ナンバー3といわれたエミル・ボブ党書記、
マニャ・マネスク国家評議会副議長、警護部隊長のニャゴエ大佐と警護員ラツの5人を乗
せ、重量オーバーとなった仏製の白いヘリは、党本部の屋上から辛うじて離陸した。マルツァン中佐の証言によれば、チャウシェスクは逃亡先を、故郷のオルト県、さらに西のド
ルジュ県方面と逡巡した後、ブカレスト北東60km の湖畔にあるスナゴヴに向かうよう指
示したという。
スナゴヴにある大統領宮殿に逃げ延びたチャウシェスクは、武装兵を乗せた2機の護衛
ヘリと合流できる手筈を整えさせるようにマルツァン中佐を通じてルス空軍司令官に命令
した。しかし、マルツァン証言によれば、ルス空軍司令官は「ヘリは出せない。自分の判
断で行動せよ」と回答してきたという。チャウシェスクは宮殿執務室の直通電話回線で各
地の情勢把握に務める一方で、エレナは緊急事態を覚悟して宮殿内の金庫から宝石や貴重
品をかき集めた。
午後1時15分、重量オーバーのためボブ党書記とマネスク副議長の2人はスナゴヴか
らは赤いジープARO224でチャウシェスクを追いかけることになり、チャウシェスク
夫妻、ニャゴエ大佐とラツ警護員の4人を乗せた白い機体のヘリは再び飛び立ち、ブカレ
スト北西の地下秘密飛行場があるボテニィに向かった。マルツァン中佐は大統領専用ヘリ
がバニャサ空軍基地のレーダーに捕捉されるよう高度を高くして飛行し、マルツァン中佐
は「レーターに補足されており、いつ撃墜されるかも分かりません」とチャウシェスクに
伝えた。恐れをなしたチャウシェスクは「では着陸しよう」と言ったため、1時25分、
マルツァン中佐はボテニィに近い道路脇の野原にヘリを緊急着陸させた。
ラツ警護員は道路を走行中の赤いダキア(仏製ルノーのルーマニア産乗用車)に機関銃
で脅して停車させ、ニコラエ・デカが運転している車に4人が乗り込み、ブカレスト北西8
0km の古都トゥルゴヴィシュテ経由で、ボテニィ地下飛行場を目指すことにした。チャウ
シェスクはボテニィから、大統領専用機のボーイングでリビアあたりに逃亡するつもりだ
ったのである。
しかし、ヴァカレシュティ村付近のある家の前で、赤いダキアはガス欠のため止まって
しまった。そこで黒いダキアを洗車していた工場労働者のニコラエ・ペトリショルを脅して、
一行はトゥルゴヴィシュテの特殊鋼工場までたどり着いた。その後、工場保護センターま
で送られたたが、そこのヴィクトル・セイネスク所長は地元の秘密警察に連絡し、午後2
時、チャウシェスク夫妻は秘密警察本部に案内された。すでにテレビやラジオは、チャウ
シェスクが逃亡したと全国に放送しており、秘密警察の署長はどう判断していいのか迷い、
秘密警察の全員が本部から姿を消してしまうという異常な事態に陥った。結局、秘密警察
本部近くにあった国軍トゥルゴヴィシュテ駐屯地のチョカルラン連隊長が、50人の兵士
たちを秘密警察本部に派遣し、チャウシェスク夫妻を国軍の保護下に置き、翌23日、基
地内の監獄に監禁したのだった。(注)
チャウシェスクが共産党本部の屋上から、ヘリで緊急脱出するのを見ていた市民たちは
叫んだ。
「奴らを逃がすな、裁判にかけろ」
その直後、群衆は堰を切ったように共産党本部内に乱入し、部屋を荒らしてチャウシェスクの肖像画や著作、文書類を窓から投げ出した。冷静な男は「重要な証拠なのだから破
棄しないように」とメガホンで呼びかけたが、混乱は収まらなかった。窓からは、ルーマ
ニア革命のシンボルとなった真ん中の国章をくり貫いた国旗がふられていた。群衆は金の
万年筆、ポルノ雑誌、ビデオテープなどを探し出して、窓から投げ捨てた。屋上までたど
り着いた市民たちは、当時ルーマニアで唯一のネオンサインだった「ルーマニア共産党万
歳」という巨大な文字のうち、「共産党」という部分を破壊した。バルコニーからは誰かが、
拡声器で「テレビ局に向かうように」と叫んだ。
午後0時25分、ブカレスト工科大学のペトレ・ロマン教授が、50人ほどの学生たちと
ともに共産党本部に駆けつけた。そして、反チャウシェスク派で、その直後に「救国戦線
評議会議長」になるイオン・イリエスクなどの共産党幹部たちが、続々と共産党本部に駆
けつけた。後に首相となるロマンはヴォイナ将軍などと宣言文を書き、党本部のバルコニ
ーに出て読み上げた。バルコニーには大勢の著名人たちが登場し、拡声器を奪うようにし
て演説した。街では自動車のクラクションが鳴らされ、急を告げる教会の鐘も市内に響き
渡って、市民たちは口々に「リベルターテ(自由)」と連呼し、サッカーの試合で歌われる
メロディで「オーレ、オレオレオレー、チャウシェスクはもういない」と合唱した。
午後1時5分、テレビ画面に映画監督兼俳優のセルジュ・ニコラエスクと反体制詩人ミ
ルチャ・ディネスクが登場し、ディネスクは「人民は神の力と国軍の助けをかりて、独裁
者を追放した。我われは勝利した」と宣言した。ニコラエスクが「ディネスクは英雄だ」
と称賛すると、「私は英雄ではない。本の背後に隠れていた人間であり、本当の英雄は昨日
死んだ人びとだ」と語った。
その後、国営ルーマニア放送のキャスターであるペトレ・ポペスクが、放送局の名称を「自
由ルーマニア放送」と変更したことを伝え、国軍参謀本部のミハイ・ルポイ大尉が画面に
現われて、次のように呼びかけた。
「国軍は国民の味方だ。国軍は市民に発砲してはならない」
共産党本部にいたイオン・イリエスクはテレビ局に向かい、そこで国軍の重鎮であるニ
コラエ・ミリタル将軍に対し、革命に加わるように電話で説得している姿が目撃されてい
る。その後、テレビ局に到着したロマンはヴォイナ、ツキァクの2人の将軍とともにテレ
ビに出演し、次のように語った。
「独裁者は国軍の助けを借りた国民よって追放された。国民は共産党本部とテレビ局
を掌握している。今は事態の沈静化と公的秩序の維持が必要である」
午後3時半、自由ルーマニア放送は、チャウシェスク夫妻がトゥルゴヴィシュテで拘束
された、と伝えた。すでに述べたように、それは事実だったが、その時点では映像はなく
国民の大半は半信半疑だった。しかし、4時40分にはチャウシェスクの長男ニクが、逮
捕される映像が放映された。ニクの下腹部は濡れており、逮捕されたショックで失禁した
ことが、画面からも見てとれた。共産党本部前には中央をくり貫いた三色旗を掲げた国軍の戦車が数台現われ、党本部の
建物やデモ隊の警護にあたった。テレビ局から党本部に戻ったロマンは、3月にチャウシ
ェスクに公開書簡を発表して軟禁状態だったブルカン元国連大使、自宅から駆けつけてき
たドゥミトル・マジルなどと合流した。そして、党本部に残っていたコンスタンティン・
ダスカレスク首相に対して、内閣の解散を要求した。ダスカレスク首相は同意するしかな
く、午後4時45分、党本部のバルコニーから内閣は総辞職したことを発表した。そして、
ティミショアラ事件以後に逮捕されたすべての政治犯を釈放する政令にサインして、その
任を終えた。
午後5時、共産党本部1階の会議室で、イリエスク、ロマン、ブルラデアヌ、ミリタル、
ティミショアラから戻ったばかりのシュテファン・グシェ参謀総長、そしてユリアン・ブ
ラッド秘密警察長官(内務副相)たちが参加した会議が開かれたが、ミリタル将軍の提案で
暫定統治組織の名称を「救国戦線評議会」とすることが定められた。午後5時半、党本部
のバルコニーにイリエスク、マジル、ブルカン、グシェなどが次々と演説に立った。テレ
ビ中継車は準備されていたが照明がなかったため、配置されていた国軍の戦車TR-580
(ソ連製T-55を改良したルーマニアの国産戦車)の探照灯がバルコニーを照らし出し、テ
レビ中継が可能となった。イリエスクは演説のなかで「救国戦線評議会」の設立案を発表
し、グシェ参謀総長は「国軍は平静です。国民を支持しており、安心するように」と語っ
た。この時点で、反チャウシェスク派党幹部、反体制活動家、そし国軍の3グループで構
成される「救国戦線評議会」が、事実上の権力を掌握したのだった。チャウシェスクが逃
亡して5時間後のことだった。ルーマニア革命が他の東欧民主化革命と決定的に違うのは、
国軍が革命に参加した点である。
チャウシェスクに公開書簡を書き軟禁状態だったアレクサンドル・ブルラデアヌ元党執
行委員は、イリエスクと次のような会話を交わしたことが記録されている。
「我われは同盟国を十分に尊重していることを、外国に伝えるべきだ」
「私はすでにソ連大使館と連絡をとり、現在の状況を伝えてある。彼らは、この情報
をモスクワに伝達するだろうから、ソ連政府は我われが何者で、何を望んでいるかを
理解してくれるだろう」
イリエスクがいつの時点で、ソ連大使館と連絡をとったのかは不明であるが、午後7時
頃にはすでに、「救国戦線評議会」に対する支持をソ連に要請していたのである。イリエス
クはモスクワ留学時代にゴルバチョフと机を並べていたともいわれ、71年に40歳の若
さで党宣伝担当書記に任命されたが、自分の地位を脅かすと感じたチャウシェスクはわず
か5カ月で解任し、西部のティミシュ県党委書記に左遷した。以後は閑職に置かれ、84
年からは技術出版社に勤務していたが、87年に情報の自由化を主張する論文を発表する
など、ルーマニアの次期指導者はイリエスクと市民たちが噂していたほどの改革派で、当
然ながらソ連との関係は親密だった。
革命が成就した後の市街戦と即決裁判
午後7時、共産党本部の向かいに建つ共和国宮殿から、突如、銃声が鳴り響いた。共和
国宮殿から共産党本部や共和国広場に集まっていた群衆に対して、激しい銃撃が浴びせか
けられたのである。
この突然の発砲に対して、党本部内にいたグシェ参謀総長や内務省副長官であるブラッ
ド将軍は、電話で情報を収集し、次々と指令を発した。ブラッド内務省副長官は秘密警察
「セクリターテ(国家保安部)」の長官でもあったが、この予期せぬ銃撃は秘密警察長官の
権限が及ばない組織によるものだったのかどうかは、今なお不明である。
すでに述べたようにルーマニアの秘密組織には、「対外情報局(DIE)」と内務省の「国
家保安部(セクリターテ)」があった。しかし、内務省には秘密警察である「国家保安部(セ
クリターテ)」のほか、25000人の兵力をもつ治安警察部隊、そして都市型ゲリラ戦の
教育訓練を受けるなどのエリート特殊部隊の3種類の部隊がいた。
こうした内実を知らない市民たちは、ブカレストの市街戦において発砲しているのは秘
密警察「セクリターテ」と包括して呼んでおり、当時の報道では銃撃はセクリターテの仕
業と伝えられていた。 内務省の特殊部隊には、前述したチャウシェスクの弟のニコラエ・
アンドルツァが校長を務める秘密警察バニャサ士官学校の学生で構成された特殊部隊(将
校のみ2000人)、アルデレアヌ大佐が隊長を務める都市型ゲリラ戦の特殊部隊(兵力8
00人)、ゴラン大佐が率いるブカレスト秘密警察部隊(兵力600人)、そして、チャウシ
ェスクとともに逃亡したニャゴエ大佐が率いるチャウシェスク警護部隊(兵力400人)の
4種類があったことを、ブルカンは自著のなかで明らかにしている。
このうちの「バニャサ士官学校」は北朝鮮の「万景台革命遺児学院」を模倣して設立さ
れたものである。チャウシェスクは孤児たちのなかから優秀な子供を集めて教育し、チャ
ウシェスクに完全忠誠を誓う「チャウシェスクの息子たち」と呼ばれる親衛隊(コマンド)
がいると現地で聞いたが、その時点では正体は不明だった。しかし、バニャサ士官学校部
隊が「チャウシェスクの息子たち」と呼ばれる秘密警察の親衛隊であることは、もはや疑
いない。
ブルカンによれば、1988年にポステルニク内相が署名した「秘密命令第2600」
は反乱が勃発したときの対応を詳細に規定したもので、第29項は「介入は特殊な行動様
式と手続き、特殊な装備を使用して奇襲で断固として実行し、破壊的な行動に従ったり、
諸機関に力づくで入り込み、あるいは襲撃者の無力化に努める人たちを攻撃するものに向
けられる」となっていたという。
当時、発砲者たちを単に「テロリスト」と呼んでもいたが、正体不明の狙撃者たちは、
チャウシェスクの弟が率いる特殊部隊による組織的な攻撃だったのである。チャウシェス
クの親衛隊は市内に張り巡らされた秘密の地下道を通って、国立劇場やインターコンチネ
ンタルホテルが並ぶ大学広場周辺にも姿を現わし、市民たちを無差別に銃撃し、ブカレス
ト市内は混乱状態となった。
市内で銃撃戦が展開されるという危機的状況のなかで、イリエスクは深夜11時50分、
テレビに登場し、「共産党の指導的役割は終った。4月に総選挙を実施し、選挙までは救国
戦線評議会が暫定的に政権を担当する」という『国民へのコミニュケ』を発表し、10項
目からなる行動計画を公表した。そして、救国戦線評議会の39人のメンバーを明らかにした。救国戦線評議会が公表した10項目の内外政策は、以下の通りである。
(1)一党独裁の廃止と複数政党制の導入
(2)1990年4月に自由選挙を実施
(3)司法、行政、立法の三権を分立し、国名を「ルーマニア社会主義共和国」から「ルー
マニア」に改称
(4)中央集権的経済を廃止と競争原理の導入
(5)農村破壊の廃止と農業の復興
(6)教育制度の刷新、マスメディアを国民に開放
(7)少数民族の権利の尊重
(8)食糧の輸出を停止し、国民のエネルギー確保のため石油を輸入
(9)統一欧州実現への協力、ワルシャワ条約の遵守
(10)人権尊重、海外旅行の自由化
この内外政策の第9項をみれば、救国戦線評議会はゴルバチョフの外交政策を支持する
共産主義的性格の政権であることが分かる。
日付が変わった23日の午前1時半から3時頃まで、テレビ局奪還を図る親衛隊と国軍
との間で激しい銃撃戦が繰り広げられた。午前4時頃、共産党本部内の小部屋に潜んでい
たトゥドル・ポステルニク内相とチャウシェスクの補佐官だったイオン・ディンカ党書記
の2人が逮捕された。その日も一日中、親衛隊による神出鬼没の銃撃戦が、ブカレスト市
内で続いていたため、救国戦線評議会のメンバーは共産党本部から安全な国防省の建物に
移動し、そこが救国戦線評議会の拠点となった。
午後3時、国軍参謀総長のシュテファン・グシェ少将は「国軍と国民が国の主要部分を
支配しており、戦闘は終息に向かっている」と発表した。共和国広場やテレビ局周辺では
戦闘が断続的に続いていたが、通りに溢れる市民たちは「リベルターテ(自由)」、「ヴィク
トリエ(勝利)」を叫び続けた。午後5時、ニコラエ・ミリタル将軍が国防相に正式に任命
された。夜になると、グシェ参謀総長の予測に反して、戦闘は再び激しくなった。
12月24日のクリスマス・イブに、ルーマニアでは歴史上初めてクリスマス・ミサが
テレビで中継され、ラジオからクリスマス・キャロルが流れた。ルーマニア人は自由ルー
マニア放送が映し出すクリスマス・ミサやカラヤン指揮のベートーベン第九交響曲を放映
し、ルーマニア国民は一方で市街戦のニュースを見ながら、クリスマスを祝ったのだった。
チャウシェスクに忠誠を誓う親衛隊は、救国戦線評議会が陣取っている国防省に対して
攻撃を始め、戦闘は空港も飛び火していた。しかし、その日の午後、救国戦線評議会のス
ポークスマンのイリエスクは「革命は勝利した」という声明を発表し、救国戦線側の武装
兵に停戦を命じるとともに、国民に対してチャウシェスクの残党を復讐しないように呼び
かけた。そして、武器の保有は国軍のみに許されており、一般国民は25日午後5時まで
に供出するように要請した。午後3時、チャウシェスクの娘ゾエが逮捕された、とラジオ
が伝えた。
その日、救国戦線評議会と国軍の代表11人はチャウシェスクの裁判をどのように実施
するか3時間も延々と議論をおこなった。救国戦線評議会からはイリエスク、マジル、ロマン、ブルカンたちが参加した。
その2日前から古都トゥルゴヴィシュテの連隊駐屯地に監禁されていたチャウシェスク
夫妻は、拘束されている間も権力を握っているかのように振る舞っていた。しかし、食事
は兵士たちと同じサラミと塩入りチーズとパンで、食事担当のダビジャ大尉が「軍の正規
の分量と同じものであります」と説明すると、エレナは「最高司令官によくもそんな口が
利けるわね」と怒鳴ったという。
トゥルゴヴィシュテ駐屯地の連隊長のチョカルラン少佐は、次のように証言している。
「2人を拘束していた間、我われの兵営は空と陸から攻撃を受け、かなりの兵士が負
傷しました。チャウシェスク夫妻を解放しなければ、兵営と市街を破壊するという脅
迫を電話で受けました」
この攻撃に驚いたミリタル国防相は、「2人を中庭の装甲車内にとじ込めておくように」
と指示した。
チャウシェスクの居場所が特殊部隊に伝わっていたのは、チャウシェスクの時計と奥歯
に仕込まれていた特殊な発信装置があったからという情報もあるが、その真偽のほどは不
明である。親衛隊は空挺部隊と戦車を動員してチャウシェスク大夫妻の奪回を画策してい
た。当初、救国戦線評議会はチャウシェスク夫妻をブカレストに連行して、その犯罪を暴
露する裁判をテレビ中継することを考えていたが、親衛隊の攻撃によってチャウシェスク
が奪還されれば、革命は頓挫してしまう。
「政治的、法律的、軍事的な配慮が徹底的に論議された。<略>最終的には軍事面へ
の配慮が勝った。革命の運命が危機に瀕していた。夕刻に、チャウシェスク夫妻が拘
留されている兵営の周りで激しい銃撃戦があったとの情報を得た。秘密警察の狙撃兵
部隊が展開していることうかがわせた」
ブルカンは自著のなかで以上のように書き、「合法性だけが革命ではない。また、公正な
裁判が革命家の夢ではない」と書き加えている。
25日、ブカレストは比較的平穏な朝を迎えた。一日中、銃声もほとんどしなかった。
その日の午前、ブカレストからブカレスト北西80km の古都トゥルゴヴィシュテの駐屯地
内でチャウシェスク夫妻を裁く非公開の「臨時軍事法廷」が開かれた、チャウシェスクの
側近だったヴィクトル・スタンレスク将軍が軍事法廷を開催する責任者となった。法廷で
は裁判長のギガ・ポパ法務大佐と3人の裁判官に対峙してチャウシェスク夫妻、その右側
に検察官、書記、ニク・テオドレスク弁護士が並び、左側には救国戦線評議会が派遣した
2人のオブザーバーが座った。
検察官はチャウシェスク夫妻の罪状について短く述べただけで、尋問も次々とおこなわ
れ、弁護士による弁論はわずか5分間で終った。そして、55分という超スピード審理で、
6万人の大量虐殺、国家権力の破壊、国民経済の破壊、そして10億ドルの不正蓄財の罪
に問われチャウシェスク夫妻は死刑を宣告された。北朝鮮の独裁者が裁判を受けるときの参考として、判決文の一部を紹介しておこう。
「被告人は自らの犯罪的活動を成就させるため、政治的権力を独占し、国家の全機能
を自らの卑しい利益充足のために屈指し、ルーマニア国民を抑圧した。かくして、被
告人は計画的な飢餓政策を採用し、国民の基本的生活条件を破壊した。無方途な計画
の効果を高めるため、両独裁者は信じられないほどの巨額の金銭(レイおよび借款な
どによる外貨資金)と国民の資産を湯水のごとく蕩尽し、ルーマニア国民の生活水準
をヨーロッパにおける最低水準 (飢え、暗闇の生活、暖房のない家庭)にまで追いや
った。
愚かにして、しかも俗物そのものの2人の暴君は、多くの邸宅をあたかも自分らの
財産であるかのように飾り立て、国民の誇るべき世襲財産である高価な美術品、貴重
な書籍類を持ち出し、邸宅に並べ立てた。ルーマニア国民よりの強奪だけで満足せず、
被告人は、国家および諸企業、また輸出入業務、その他の活動より発生した収益たる
交換可能外貨の一部を、自己または他人名義で預託した」
死刑判決が下されたチャウシェスク夫妻は、ブカレストから来た刑吏4人に後ろ手に縛
られて、監獄内の空き地に連れ出された。処刑執行を担当する将校は、警備していた兵士
のなかから5人を銃殺隊として選抜した。しかし、警備にあたっていた兵士たち全員が、
処刑執行を望んでいた。執行監督官である将校が「銃殺隊、前へ」と叫び、「撃て」と命令
した。すると、5人の銃殺隊だけではなく、警備兵全員の発射音が轟いた。チャウシェス
ク夫妻の遺体からは、100発以上の銃弾が見つかったという。
この軍事法廷の裁判と死刑執行の様子は、自由ルーマニア放送によって撮影された。そ
の日の午後8時半、自由ルーマニア放送は「チャウシェスク前大統領とエレナ前第1副首
相が軍事法廷で死刑を宣告され、処刑された」というアナウンサーの言葉だけを伝えた。
そして、アナウンサーは、後に映像を流すと述べた。それから5時間後の深夜1時40分、
チャウシェスク夫妻が法廷にいる映像が放映されたが、処刑シーンは流されなかった。処
刑されたチャウシェスク夫妻の遺体の映像が自由ルーマニア放送で放映されたのは、半日
後の12月26日午後1時のことであり、配信を受けたフランスのテレビ局によって、翌
27日、全世界に放映された。
おわりに
ルーマニア革命は市街戦の様子がテレビ中継され、ルーマニア国民にとってテレビ映像
は革命の決定的な要因となった。そして、その電波は世界中に流れ、革命の現実を全世界
は居間で見ることになった。私は現地で、テレビ局周辺の激戦跡、共和国広場、広場に面
するブカレスト大学中央図書館の焼け跡、損壊したホテル・アテネパレスやアテネ・ロマ
ーナ音楽堂などを見た。そして、ルーマニアの劇的な革命は、独裁体制に対する市民の激
しい抵抗により成就したという印象は事実でないことを実感した。
私は救国戦線評議会副議長だったシルヴィュ・ブルカンに、その点について尋ねた。
「私たちは[反チャウシェスク派の党幹部と]相互の間に結びつきはありましたが、大衆との結びつきはありませんでした。それは不可能だったのです。私たちは、科学者、
作家、将軍たちのなかに多くの友人を持っていました。革命の時点では、治安部隊員
の家族とその将来を保証して、日和見的動機による治安部隊の分裂と分解の状況を作
り出すことが、非常に重要だったのです。治安部隊の隊員たちは東欧における治安部
隊の運命をよく知っていたからです」
ブルカンは救国戦線評議会副議長長を1カ月ほどで辞めて、ブカレスト大学の教授にな
っていた。革命以前に救国戦線評議会という組織を作り上げていたのか、という私の質問
には、次のように答えた。
「チャウシェスク独裁体制の下では、そうした組織を作ることは非常に困難でしたが、
私たちは接触を保っていました。後で分かったことですが、当局は私の動向の総てを
1時間毎に把握していたのです。それでも[公開書簡を書いた]6人のうちの1人を通
じて、他の4人と接触していました」
ルーマニアで抑圧されていた国民は、東欧民主化の流れの息吹を敏感に感じ取っており、
恐れを知らない若者が面白半分に鳴らした爆竹が、集会に動員された群衆の鬱憤を誘爆さ
せた。ただ、ブルカンが書いているように「100パーセント自然発生的」なものと断定
するのは困難である。集会参加者とは別の若者の集団が、革命のシンボルとなった中央を
くり貫いた三色旗を事前に用意していたことは、反体制知識人らによるなんらかの謀議が
あったと推定される。その謀議のなかに爆竹の破裂が計画されていたかどうかは不明だが、
ティミショアラ暴動の余波を受けて、ブカレストで若者たちが騒動を計画していたのでは
なかろうか。
彼らはチャウシェスク打倒とともに、共産党独裁の打倒も望んでいたのである。しかし、
前衛となった若者に市民や労働者たちが加わり、巨大なエネルギーが市民蜂起となって爆
発した瞬間、反チャウシェスク派の共産党幹部たちが蠢き始め、翌日には「救国戦線評議
会」という暫定政権の準備を手際よく整えたことは、詳述した通りである。北朝鮮におい
ては、ブルカンたちのような内外に知られた反金正日派の労働党幹部は存在しないため、
北朝鮮では本来の意味でのルーマニア革命のような事態は起こり得ない。
チャウシェスク独裁に最初に叛旗を翻したのは市民たちだったが、暫定政権の実権を握
ることになる共産党幹部たちによる一種の「宮廷クーデター」だったことは、状況が緊迫
していたとはいえ、チャウシェスク処刑を急いだことにも現われている。ルーマニア革命
は「盗まれた革命」ともいわれるが、「市民蜂起に便乗した宮廷クーデター」だったことは、
本稿を熟読した読者には理解してもらえたことだろう。
「これまでの革命がチャウシェスク打倒だったとすれば、これからの革命は、共産主
義打倒が、その目標となる。<略>すでに若者たちは、朝から呼びかけ合ってデモを
組織していた。ロマーナ広場へ向かうと、若者たちが口々に「共産主義打倒」と叫び
ながら行進している。私は彼らの気持ちをよく理解できた。なぜなら、共産党本部の中で新しい政権づくりを始めている中心的人々が、共産党の幹部にほかならなかった
からだ。いかにチャウシェスクに対して批判的だったとはいえ、しょせん同じ仲間な
のである。新たなチャウシェスクが登場してくる可能性がまったくないとは言い切れ
なかった。だから、発砲が止んだからといって革命が終ったわけではない、と主張す
る若者たちの意見は、もっともなことだと思えた」(ダン・チョバヌ、智片通博共著
『この目で見た政権の崩壊』159頁)
ルーマニア革命をビデオカメラで記録したダン・チョバヌは、12月25日、まだチャ
ウシェスク処刑の報道がなされていない時点で、以上のように書いている。この記述が、
1989年12月のルーマニア革命の本質を的確に示しており、ルーマニアにおいて実質
的な共産党支配が終ったのは、それから7年後の1996年のことだった。
本稿の執筆において、以下の著作を活用させていただいた。深く感謝したい。
木戸蓊著『バルカン現代史』1988 年、山川出版社
ダン・チョバヌ、智片通博共著『この目で見た政権の崩壊』1990 年、日本放送出版協会
松本了著『ルーマニア革命』1990 年、東洋経済新報社
鈴木四郎著『チャウシェスク銃殺その後』1991 年、中公文庫
シルビュ・ブルカン著『ルーマニア・二つの革命』1993 年、サイマル出版会
イオン・パチェパ著(住谷春也訳)『赤い王朝』1993 年、恒文社
  
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