救う会全国協議会

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北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会

国際会議「北朝鮮による国際的拉致の全貌と解決策」全記録





家族会の拉致救出運動10年の歩み
横田 滋・北朝鮮に拉致被害者家族連絡会会長


 北朝鮮人権週間中の平成18年12月14日、政府(拉致問題対策本部、法務省人権擁護局)主催で、「拉致問題を考える国民の集い」が日比谷公会堂で開催された。その内、横田滋・早紀江夫妻の報告と安倍晋三・内閣総理大臣の挨拶を本書で紹介する。

家族会の拉致救出運動10年の歩み

 皆様こんにちは。平日の午後、お忙しい時間にかかわらずご参加下さいましたことに心から御礼申し上げます。日比谷公会堂で会を開くのは、今回で11回目です。といっても、今回は政府主催の最初の会です。最初に会を開いたときは、参加者も少なかったし、国会議員は一人もおいで下さいませんでした。そのときのタイトルは、拉致問題を国政の最優先課題に、ということでした。当時は拉致疑惑とされており、政府もあまり積極的に動いて下さらなかった時代でした。

それが回を重ねるごとに、新しい拉致議連が結成されて、各党に拉致対策本部をつくって下さるようになり、さらに安倍内閣誕生により拉致問題に一段と力を入れてくださるようになりました。私たちが前からお願いしていた拉致担当大臣の任命も実現し、塩崎恭久官房長官が拉致担当大臣に就任して下さいました。

従来から安倍さんが政府の横の連絡をよくするためにということで拉致の専門幹事会をつくって下さいました。後に特命チームという名前に変わりましたが、各省の局長クラスの方がそのメンバーになっていました。今回はさらにそれを格上げしたような形で、拉致対策本部をつくり、安倍首相自らが本部長に就任されて、副本部長に塩崎官房長官、事務局長に中山恭子首相補佐官が就任して下さいました。

中山さんは、以前は内閣府の参与でしたが、帰国された方、また被害者家族にも非常に人望の厚い方で、かつこれまでも救出活動に実績があるので、私たちは、ぜひ実力を発揮していただく場所を設けていただきたいなどということも話していました。その中山さんを拉致担当の首相補佐官に任命して下さいました。また、歴代の外相の中でも拉致の解決に非常に熱心に取り組んで下さっている麻生太郎外相、鈴木政二官房副長官も再任ということになって、拉致に対する非常に強力な布陣がしかれました。私たちは、これからの活動を非常に期待しています。

 先日、「めぐみ─引き裂かれた家族の30年」という映画の試写会がありました。現在は一般の劇場で公開されています。その映画をご覧になった方が、拉致の問題は日本国民は誰でもよく知っていると思っていたのですけど、映画を観て初めて知ったことがたくさんあるという感想を述べていました。私たちは当事者だけれども、一般の方は最近の情勢はよくご存知なのですが、以前のことはどうしても忘れてしまうということがありますので、今日は時間をたくさんいただきましたので、初めの頃のことも少し簡単に説明させていただきます。

 めぐみがいなくなったのは、昭和52年11月15日ですから、あれから30年目に入っています。それから、めぐみは平成18年の10月5日の誕生日で42歳になりました。人生の三分の二以上を北朝鮮に拘束されているわけですが、未だにはっきりした存在場所も分かりませんし、どんなことをしているのかということも分かっていません。

 めぐみは学校から、通常6時半には帰って来るのですが、その日は時間を過ぎても帰って来ませんでした。それで早紀江が学校まで迎えに行きました。家と学校の間は約五百メートルぐらいで、広い道路を通っていきます。町の中心部からも近いところです。そこに新潟大学の理学部があったのですが、それが郊外に移転したために非常に広い空き地がありました。それから一つホテルがあったのが火災にあったらしく営業を中止していましたので、そのホテルの電気もつきませんし、町の中心街に近いわりには寂しい場所ではありますけれど、バスも通っている道ですから、そんなに寂しいという所でもありません。

 学校まで行ったら、体育館に明かりが点いていて、女の人の声でワーっというような声が聞こえたので、今日は随分遅くまで練習をしているんだなと思って帰ろうとしたんですが、念のためのぞいてみたら、お母さん方がバレーボールの練習をしていて、生徒は誰もいませんでした。それで警備員の方に聞いたら、生徒はいつも通りに帰りましたということなので、家に取って返しました。しかし、めぐみはまだ家に戻っていないのがわかりました。

 これまで、めぐみは、学校の帰りに寄り道したことは一度もありません。途中に友達の家もありませんし、商店もありませんから、立ち寄る場所がないわけです。それで弟を連れて家の近所とか近くにある護国神社の境内、それから通学路等調べましたが、めぐみの姿は見えませんし、遺留品も見つかっていません。それで学校の先生にも連絡して、もしかしたら学校に戻ったことを先生が知らないでどこか鍵をかけてしまったのではないかと、学校を調べてもらったのですが、学校にはめぐみがいる気配はありませんでした。

 それでその日のうちに警察に届けて、新潟中央警察署と隣接の新潟東警察署の方がすぐに捜査に当ってくださいました。学校の校門を出たところは広い道路です。めぐみはそこを右に10分もあれば家に着くのですが、警察の調べによると、めぐみは友達二人と計三人で校門を出たそうです。三人で自宅の方向に向かったのですが、友達の一人はすぐに右に曲がって別れて二人になって、ちょうど学校と自宅の中間点ぐらいにあたるバスの通っている交差点のところでもう一人の友達が左に向かって別れ、そこからめぐみが自宅の方に向かったのが最後の目撃情報です。

 警察はそこで警察犬二頭を放してめぐみの臭いを追わせました。すると警察犬は自宅の方にまっすぐ行き、あとは左に曲がったら50メートルぐらいで自宅というところで犬がそれ以上追うことができなかったので、警察はここで車にでも乗せられたのではないだろうかと推測しました。

 可能性としては、身代金目的の誘拐という可能性が一番高いということでした。その次には暴行目的の誘拐、三番目は、あそこはバス通りのところに信号がありますが、近道をすると信号がありませんので、車と接触して軽い怪我をしたけれどもたまたまその人が無免許であるとか飲酒運転であるということで届けることができなくて連れ去って、うまくいけば治療してあとからこっそり返してくるということもあり得るとか、もし怪我がひどければそのままどこかに捨ててしまうというような恐れもあるということでした。そんなような形で捜査を始めました。

 家の中には逆探知をするような装置とか録音装置をつけて、家の周りには覆面パトカーが張り込んで、刑事さんが五、六人家の中に待機しているような状態でした。そして係の警察官が早紀江が探したところをもう一度改めて調べなおしてくれましたが、何も見つかりませんでした。その日は12時ぐらいになっていったん打ち切りました。

 その空き地というのは秋ですから枯れ草が高い位置にありますけれども、そこに靴の片方とか何か物が落ちていたとしても暗くて分かりませんので、いったん12時ぐらいに打ち切って、翌朝、薄明かりになってから県警の機動隊も出て大規模な捜索をしてくれました。広いところを一列横隊になって長い杖のような棒で地面を突きながらきめ細かく探してくれました。

 海岸が近いので、防風林とか海岸そして神社の境内等もすべて調べてくれたのですが、なんの遺留品もめぐみの姿も見つけることはできませんでした。近所の聞き込みに回っても、目撃したとか悲鳴が聞こえたという情報は入りませんでした。そして1週間に延べ三百人、一か月で延べ三千人という警察官の方が捜査に当ってくれたのですが、なんの情報もありませんし、遺留品も見つかりませんでした。

 それで、一週間後には公開捜査に切り替えて、地元の新潟日報に、少女行方不明事件ということで大きく載りました。これで解決するだろうと思ったのですが、新聞に出たのにかかわらず何の情報も入りませんでした。警察はどんどん捜索範囲を広げて、北は山形県の県境までもヘリコプターを飛ばしたりして調べてくれましたし、南のほうも富山県に近いほうまでも調べて下さったのですが、しかし何も見つかりませんでした。

 そんな状態がずっと続き、その間に私たちも、当時はテレビ局に人探し番組がたくさんありましたので、四つの局に5回出て呼びかけを行いました。テレビの力は非常に大きくて、ほとんどの方はその日のうちに見つかるのですが、しかし、めぐみについては情報の提供は一度もありませんでした。今になって、北朝鮮と分かれば、訓練された工作員が子供一人を連れ去るのには証拠も残さずに連れて行くのかもしれませんけれども。

 全く情報が入らずに、警察は、犯罪人というのは同じ犯行を繰り返しますから、もし似たような犯行が行われて、そしてその事件が解決したら余罪ででも見つかるのではないかといわれていました。世間では現在の神隠しであるとかUFOの仕業ではないかというようなことを言われていましたが、何の情報もないまま20年が経過しました。

 そして平成9年1月下旬に、国会議員の橋本敦さんの秘書の兵本達吉さんから電話がありました。この方は、以前、橋本議員が参議院で拉致について質問したときの政策秘書をしていましたから拉致について非常に詳しい方です。その方から、お宅のお嬢さんは北朝鮮に拉致されて平壌にいるらしいという情報が入りました、と。20年目にして初めての情報です。しかも国会議員の秘書の方からの電話でしたから、それは非常に信頼できる電話だと思いましたし、これで解決したというふうに思いました。外国にいるのだから二、三日はかかるかもしれないけれど、居場所が分かったのだからすぐに帰って来ると思い、詳しい話を伺うために議員会館に訪ねました。

 そこには『現代コリア』平成八年十月号のコピーと公開捜査に切り替えたときの新潟日報のコピーも置いてありました。『現代コリア』の記事は大阪の朝日放送の石高健次さんが書かれた「私が『金正日の拉致指令』を書いた理由」という記事でした。石高さんは『金正日の拉致指令』という本を書いたわけですが、そのことについての文章を書いているものでした。本を書いたもの以外にも悲惨な事件があるのだけれども、情報が少なくて本に書くことはできなかったけれどもこんな事件があるのですという前書きがありました。

 そこに1977年か78年に日本海のどこかの都市で13歳の少女がバドミントンの練習を終えて帰宅途中に自宅のすぐ近くで、任務を終えた工作員が今まさに脱出しようというところを目撃された。工作員は警察に届けられては困るということで連れて帰ったということです。少女は家に帰りたかったわけですが、しかし北朝鮮側から、朝鮮語をマスターすれば帰してやると言われて一生懸命に勉強をして朝鮮語をマスターしたけれども、18歳になったときに日本に帰してもらえないということがわかったので、そこで精神に破綻をはきたして入院をした。そして、少女は双子の妹である、というふうに書いてありました。それを見たときに、これはめぐみのことに間違いないなと思いました。しかし、20年も前の話で、かつ、めぐみが有名人でも何でもないのに13歳とかバドミントンとか非常に細かいことが書いてありますが、それは公開捜査されたときの新聞を見れば書けるような内容です。ですから、その当時は拉致はでっち上げであって、そんなものはないんだということを言う政治家や学者の方がいましたが、そうとも取れるような内容です。親しか分からないこととかが載っていればすぐに、これはめぐみのことだと分かるのですけれども。

 めぐみがいなくなって3か月ぐらい後に、金を持って来いという脅迫電話が家にかかってきました。早紀江がその話を引き伸ばして、めぐみの弟が隣の家を通じて警察に連絡したので逆探知が成功して犯人を捕まえました。しかしそれは高校生で、新聞等を見てのいたずらでした。

 ですから今回の場合もそれと同じようなことがあり得るのかなと思いました。しかしちょっと気になったのは、「少女は双子の妹」と書いてあったところです。めぐみは双子ではありませんが、めぐみには双子の弟がいます。新潟日報にも双子の弟が姉さんのことを心配しているという記事が出たことは何回もありますが、公開捜査に切り替えたときは直接関係内から双子の話は全然載っていません。ですから双子ということが出ているのでもしかしたらこれが本当のことかなと思いました。

 そのときたまたま、昭和55年に日本で初めてアベックの拉致事件を記事にした産経新聞記者の阿部雅美さんが、そのときは社会部長に就任されたので兵本さんのところに挨拶に来たわけです。そこでそのことを知って取材を始めてくださいました。その他、アエラとかニューズウィークなどの取材もあったのですが、私たちが一番心配だったのは、実名を出し、写真を出すかということでした。写真を出して実名を出さなければ記事の信憑性というのがなくなりますので、また昭和55年のときと同じような形で立ち消えになってしまう恐れがあります。しかし実名を出すと、北朝鮮側が拉致はなかったということにするためにこっそり殺してしまうのではないかという恐れがあり、非常に迷いました。

 私は実名を出した方がいいと思ったのですが、早紀江や2人の弟が反対でした。子供たちは、お父さんの言うことは正しいと思うけれどもそれは父親としての観点に欠けている。やはり安全ということを絶対優先しなければだめだということを主張しました。しかし最終的には実名を出すことを了承しました。

 そして平成9年2月3日の産経新聞に「少女拉致事件」ということで大きく報じられました。これはそのときの新聞協会賞をとったスクープの記事です。同じ時期に発売された週刊誌アエラにも詳しく報道されました。そのことによって日本人は、拉致があるということを知ったわけです。

 その日の午後、衆議院の予算委員会で新進党の西村真悟代議士が橋本首相に少女拉致事件ということで質問をして下さいました。そのときに橋本首相は、調査中ということで明確な答えはなかったのですが、同年5月になってから北朝鮮による拉致の疑いが濃厚である事案だということで6件9人にめぐみを加えて7件10人を北朝鮮による拉致が濃厚である事案として発表し、警察白書にも掲載されました。たまたまそのときテレビで生中継がなされていたので、それによって大勢の方々が、拉致事件があったということを知ることになったわけです。今日お見えになった方もほとんどに方は平成9年2月3日に日本人が拉致されているということをお知りになったかと思います。また若い方の中には小泉首相の訪朝によって拉致があったことがわかったと思っている方もいらっしゃると思いますが、実際はもっともっと前から分かっていたことなんです。

 産経新聞の昭和55年1月5日号にアベック謎の蒸発ということで、3件のアベックの蒸発と1件の富山での未遂事件のことを報じています。北朝鮮という名前は出していませんが、誰が読んでも北朝鮮ということがすぐ分かるような記事になっていました。しかしそのときは、韓国の場合は金大中事件なんかあったので拉致をするかもしれないけれども、まさか北朝鮮が、ということもあって、その後新聞が報じなかったものですから、いつの間にか一般の人の記憶からは忘れ去ったわけです。

 しかし昭和63年には参議院予算委員会で橋本敦議員が3件のアベックの拉致事件と1件の未遂事件、大韓航空機爆破事件の金賢姫に日本語や日本の習慣を教えた李恩恵のこと、そして辛光洙に拉致された原敕晃さんについて質問をしています。すると梶山静六国家公安委員長が、北朝鮮による拉致の疑いが濃厚であると言って、国会の場で北朝鮮の名前を出しています。そして宇野外相も、まだ調査中であるが事実であれば断固たる措置を取ると答弁なさっていますから、政府の方や当時の国会議員は皆さん知っていたわけです。しかしそのときは産経新聞と日経新聞が小さく一段で報じたといいますが、一段くらいの小さなスペースでは詳しい内容は出なかったと思いますから一般の方は気づかなかったわけです。そしてアベックの方のご両親も私たちが心配したのと同じように自分たちが名乗り挙げたら息子たちに危害が及ぶのではないかと思ったそうです。ですから、親も名乗り挙げないから一般の方は知らない。そして恐らく、国会で取り上げられたのだから自分たちは何もしなくても当然政府がやってくれるだろうと思ったのだろうと思います。

 後になって家族会が結成されてから当時の記録を読んでみますと、李恩恵については北朝鮮側に照会しています。そして北朝鮮側から、そんな人は存在しないという回答がありますが、アベックについては何の救出の手段も取っていません。ですから、世論の力がなければ国交正常化を重点に置いて、拉致被害者を救うということにはあまり力を入れて下さらなかったわけです。

 めぐみのことが明らかになったときでも、まだ拉致疑惑のときだったし、それほど国民世論が盛り上がっていたわけではありませんので、外務省の局長がたった10人ぐらいの拉致のことで騒いで国交正常化交渉が進展しなければ国益に反するなどということを言って顰蹙を買ったこともありましたけれども、やはり国民世論がなければ救出運動は全然進まないわけです。それを受けて政府が動くということになりますので、現在から考えたら想像がつかないかもしれませんけれども、そんな時代がありました。

 西村真悟代議士が平成9年2月3日に質問したときでも、国会では野次が飛んで、西村代議士はでたらめを言っているのではないかといわれたぐらいで、ちょっと前まではそういう時代でした。

 西村質問の日、当時は日本電波ニュースの高世仁報道部長が、亡命工作員から偽ドルについて取材のためにソウルに行ったわけです。そのときに成田空港で産経新聞やアエラを買い込んで行ったそうです。ソウルで安全企画部の立会いの下に取材をしているときに全く予告なしに、今日日本ではこんなことがあったんだと言って新聞とか雑誌を見せたそうです。するとその工作員が写真を見て、この人を見たことがあると発言したので日本電波ニュースの方は驚いたそうです。

 そして工作員に聞いてみると、この人は自分が金正日政治軍事大学で工作員としての訓練中、ある開校記念日に舞台の方に向いて学生が座っていたとき、まだ始まる前だったので先輩の丁(チョン)という工作員が、あそこに日本語を教えている女の先生が5人いるけど、その中の一番若いのは自分が日本から連れてきたんだと言ったそうです。関心を持って見たのはそのときが初めてだといいますけど、その女の人とこの写真の人がそっくりだということを証言して下さったわけです。そして休憩時間になって学生たちが外に行ってタバコを吸っているときに、先輩の工作員に、「日本のどこから連れてきたんですか」と聞いたら、「新潟、新潟」と言ったということです。

 すぐに編集前のフィルムを見せていただきました。朝鮮語の部分は同時通訳をして下さったのですが、「新潟、新潟」と言うところは固有名詞ですから分かりました。前に『現代コリア』に出ていた亡命工作員から聞いたときには、新潟という言葉は出ていなかったわけですが、今度は新潟という言葉が入ったので二つ重ね合わせるとかなり信憑性が高まるわけです。

 しかし、工作員という言葉は初めて聞きましたし、よその国に入って行って子供をさらってくるような人だから、ならず者のような人であまり教養もないような人だけど腕力の強い人かななんて思っていました。ですから工作員の人の証言は本当に信用できるのかということを感じました。当時の外務省の方でも、新聞記者との懇談の中で、工作員の話は信用できない、自分を有利にするために嘘を言うことがあると話したことがあって問題になったことがあるわけですけれども、工作員と言ってもその程度の認識しかなかったかと思います。

 その年の3月中旬に朝日放送の石高さんと一緒にソウルに行って、その工作員に直接お目にかかって話を聞きました。その二、三日前に産経新聞に単独インタビューが載りましたので、そこで新しく聞いたということはあまりなかったのですが、しかし精悍な礼儀正しい青年が現れて、知っていることは何でも教えて下さいましたし、知らないことはいい加減にしないで知らないとはっきり言ったので、この人の話すことは間違いないと確信しました。その工作員はその時は顔を暗くして名前を明かしていませんでしたが、安明進さんだったということがその後に分かったわけです。そういうことがありました。

 ただ一つ驚いたことに、その先輩の工作員はその後何回も新潟に出入りして、町中に貼ってあっためぐみを探すポスターをはがして持って帰って、それを記念品のように持っているという話を聞きました。それで私たちもポスターを持って行って、これですか?と聞くと、現物はみせてもらっていないということでした。しかし工作員がそんなに簡単に日本に出入りしているということには驚かされました。

 めぐみのことが国会で取り上げられたことがきっかけになって、この事件は新潟で起きたのだから新潟市民の手で何とか救出しようということで、新潟に横田めぐみさんを救う会ができました。そのときは他の家族がまだ名乗りを挙げていなかったものですから、一般の人は名前も知らないし、どこに住んでいるかも知らないわけですから、めぐみを救うためだけに会をつくったわけです。

 しかしその後、兵本さん、阿部さん、石高さんたちが取材の関係で皆さんのことをよくご存知だったので、この機会に家族会をつくろうということで働きかけて下さって、平成9年3月25日にアジュール竹芝というところで家族会を発足させました。そして翌日に記者会見を開いたわけです。それを機会に、横田めぐみさんを救う会というのが北朝鮮に拉致された日本人を救出する新潟の会という形になり、全員を対象とした救出運動が始まったわけです。そして新潟で会合を開いて、桜井よしこさんがおいで下さった時は、小学校の体育館いっぱいの人が参加して下さいましたが、それでもまだ救う会は新潟にしか救う会がありませんでした。その席には東京の方とか北海道の方とかも出席して下さったのですが、その半年ぐらい後に東京にも救う会ができました。実質的には救う会関東のような性格の会でしたから、その後、救う会埼玉、救う会千葉、救う会神奈川と救う会東京に発展的に分かれていって、それから全国に救出する会が続々とできました。現在はほとんどの県に救う会があります。各地の救う会は全国協議会の支部とは違い、それぞれの会が独立しているのですけれども共通の目的だから協議会をつくっているわけです。

 それから救う会全国協議会には加盟していなくてもブルーリボンの会というような名称の会も含めれば日本全国に支援組織が出来上がっています。それがいろいろな形で会合を開いて下さったりして国民世論の喚起になっています。そうしてだんだん拉致問題対して世間の認識というものが高まってきました。

 日朝間は以前から、国交正常化交渉とか日朝赤十字会談が開かれていましたが、そのことがあまり新聞に出なかったように思います。しかし、めぐみのことが出たのをきっかけにそういった会談の模様が紹介されるようになりましたし、だんだんいい方向に動いていきまして、その年の秋には日本人妻の帰国が実現しました。それから後に首相になられた森喜朗代議士が平壌に行った際に、拉致と言えば北朝鮮は認めませんので、行方不明者として調査してほしいと北朝鮮に要求し、北朝鮮はそれを受け入れて調査しましたが、しかし半年後の平成10年5月になって、そんな人は一人も入国していない、拉致の事実はないというような回答をしてきました。そのため、いい方に動いていたのが止まってしまいました。

 その後、その年の8月にテポドンが日本の上空を飛び越えたり、また不審船が侵入してきたのを日本が初めて銃撃して撃沈したとかということがあって両国の関係が悪化して、拉致の解決の機会も遠のいていきました。しかし、平成14年始めの日米首脳会談で小泉首相がブッシュ大統領に対し、拉致問題の解決なしに日朝国交正常化交渉の妥結はありえないと初めて発言して下さいました。その頃から国内でも衆参両院で早期救出の決議がされたり、安倍首相が内閣官房副長官だったときに省庁の横の連絡を良くするような組織として拉致の専門幹事会をつくって、自分がそのトップに立って下さいました。

 また以前も拉致議連はありましたが、当時の拉致議連の会長は日朝友好議連の会長を兼ねていて、北朝鮮を追求する側と仲良くする側と一人の人が両方を兼ねているものですから、やっぱり大きな活動をしてくれることはなかったと思います。しかし平成14年4月にそれまでの拉致議連をいったん解散して、新たに「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」を発足させました。そして、政府への働きかけをして下さったり、訪米の際には同行して下さり、アメリカの議会関係、人権団体、政府関係者との面談のためにご尽力いただいたり、拉致解決のために非常によく動いて下さるようになりました。

 アメリカもクリントン大統領のときと違ってブッシュ大統領は北朝鮮に非常に厳しい対応をするようになりましたし、北朝鮮も経済政策に失敗して配給制度が維持できなくなったりしたので、ここで日本と国交正常化して向こうから見れば賠償をもらいたいということがあって初の日朝首脳会談が実現しました。

 平成14年9月17日、私たちは最初は議員会館の中で待機して様子を見ていたのですが、議員会館の中には北朝鮮直通の電話がありませんので、外務省の飯倉公館に移ってほしいという依頼があり、バスで移動しました。そこでテレビで拉致の報道を観ながら待っていたのですが、なかなか伝達がありません。外務省の方の説明では、今最後の詰めの作業をしていますからもう少しお待ちくださいというようなことで、だいぶ遅くなってから個別に小さな部屋に行って話を聞くことになりました。

 少し戻りますが、その日の昼ごろマスコミの方から、今の心境は?などと取材がありました。私は、今日はめぐみがどこにいるか、いつごろ帰るかということが分かるので楽しみにしていますということを話しました。それは確認されたわけではありませんけれども、めぐみの生存情報がいくつも出てきました。また、めぐみは他の人よりも若いから生きているだろうと世間の人も思っていましたし、私たちも当然そう思っていました。

 私たち家族が一番始めに呼ばれて小さな部屋に行くと、植竹繁雄外務副大臣が中におられました。いいことを聞けるのだったら副大臣も当然にこやかな顔をしておられるだろうと思って入って行ったら、非常に沈痛な顔をしておられたので、あれ、おかしいな、と思ったんです。

 しかし中に入って話を伺ったのですが、開口一番、「誠に申し上げにくいことですけどお嬢さんは亡くなっておられます。そして結婚して女のお子さんが一人います」と、それだけの伝達がありました。政府が詰めの作業をした上での公式の伝達ですから信じないわけにもいかないのですけれども、それだけではとても納得できないので、結婚した相手の人は日本人ですか、北朝鮮人ですか、女の子は何歳ですか、めぐみは何が原因で死んだのですか、いつ死んだのですか、とかということを質問したのですけれども、何を聞いても「分かりません」「分かりません」ということなので、他の人にも伝達がありますし、また別途細かい説明があるのかと思って部屋から戻りました。

 話を聞いたときは涙を流しましたが、しかし戻るときはできるだけ平静を装っていたのですけれども、それでも結果がいい答えが出たのか、悪い答えが出たのかということはすぐにわかりますので、誰も話しかけてはきませんでした。そして後のほうの席に座っていました。

 その次に有本さんが呼ばれて行きましたが、有本さんが戻って来られるときの顔を見たら、やっぱりいい答えではなかったんだろうと思ったんですけど、そばに来て小さい声でやっぱりだめでしたと言うような声を聞きました。「死亡」とされた方の家族が順番に呼ばれ、最後に生存している方の家族がまとめて一緒に呼ばれて福田官房長官から伝達があったのですが、そのときに蓮池さんのお母さんが、「めぐみちゃんはどうなったのですか」と聞いたら、死亡としたということを言ったら、「そんなばかな」と言ったので、官房長官が、「黙りなさい。あんたのところの子供は生きているんだよ」と怒られたと言っていました。

 地村さんも「申し訳ない、うちの子供だけが生存して申し訳ない」と言って、むしろ生存とし言われた方のほうが悲しがって、死亡と言われた方のほうが内心はともかく表面的にはそんな悲しそうなことを言わずに逆のようなが感じでした。私たちも「地村さん、そんなことを言わないで下さい。みんなが死んだというのならがっかりだけれども生きていたのだから良かったじゃないですか。もっと喜んで下さい」なんていう話もしたんですけれども、「いやー、そりゃ申し訳ない」という話でした。このように全く意外なことになりました。そして翌朝の新聞には「横田めぐみさん死亡」と大きく出て、私たちのことも遺族の方がどうのこうのと出ていました。

 その晩、家族の方が全員、小泉首相から直接話を聞きたいということを考えて、平沢勝栄代議士を通じて申し入れました。しかしそのときはまだ、飛行機に乗ったか乗らないかの時間だったので、首相の秘書を通じて明日の9時までに回答するという約束があったので、翌日は朝食を済ませて小さな会議室で待っていました。そうしたら電話が入り、今日は会えない、近々会うという連絡がありましたので、皆さんそこで帰ったわけです。

 しかし私たちは近いですから、子供も一緒になって自宅にゆっくり向かいました。蓮池さんのところは息子さんが東京に勤務していますからそこに寄ってから帰ろうということでまだ東京にいました。そのとき、外務省から連絡があり、応援に来ていた梅本和義さんという駐英公使の方が明日になったらロンドンに帰るけど今日のうちなら家族に会ったときの話をしてくれるということで、場所はどこでもいいということだったのですが、その時は私たちもマスコミから追いかけられて非情に混乱していましたので、外務省に行って話を伺いました。

 そのときには蓮池さん家族とうちと二家族だけが行ったわけです。蓮池さんは「どうしてうちの弟がわかったんですか」とかいろいろ質問しました。蓮池さんは足に交通事故の痕があるということは私たちも知っていましたけれども、それが左足にあるのか右足にあるのか、甲の部分なのか少し上の方なのかということは知りませんでしたが、梅本さんは、「傷を見せてもらった」とか「出身校を聞いたら合っていた」と言うのですが、「それぐらいでどうして断言できるんですか」と言ったら、梅本さんは「そんなことは何も確認していないですよ。北朝鮮が誰が生きている、誰が死んでいると言ったことをそのまま平壌にいる安倍さんのところに伝え、それと同じことを本国に打電した」ということだったので、確認していないということが分かったわけです。私たちはそれに対して抗議したら、次の日からの新聞には「北朝鮮の発表によると死亡とされた人」という形で断言調ではなくなりました。

 しかし、なぜ死んだのかということについて、病死か事故死かという程度の区別しかなかったのだそうです。そしてしばらく経ってから、いつ死んだのかについて外務省から連絡があり、うちの方には1993年3月死亡ということを言ってきました。私たちはとても死んだとは信じられないからそんなのは別に命日とも思わないから参考までに伺っておきますということにしました。

 そんなような状態で、その後小泉首相とは9月27日にお目にかかって話を伺い、その日の午後から外務省アジア大洋州局参事官斉木昭雄さんを団長とする調査団が平壌に行きました。そこで生存の人に面会したり、死亡とされた人については死亡場所とか、めぐみのケースでは病院に行って担当の医者に会ったわけです。めぐみのケースは、うつ病によって入院して、回復期に病院の中を散歩しているとき医者が用事ができてちょっと部屋に戻った隙に自分の衣服を破ってロープを作って首吊り自殺をした。遺体は病院の共同墓地に埋葬したけれど夫がその年の秋に持ち帰った。その時には火葬にしたとか新しい墓を作ったということは何もなかったのですけれども、夫が持ち帰ったということは聞いてきたわけです。

 めぐみ以外の方ですと、皆さん、死亡してお墓があったけれども95年の洪水で流されてしまって骨がないとか、そんなようないい加減なことしか北朝鮮は説明しなかったのです。どうして違った場所で違った時期に死亡したのに日本人の墓だけが流れるのか非情に不自然なわけです。それに、原さんは40代で拉致されていますけれども、めぐみは10代で拉致され、それ以外の人は20代で拉致されているわけですが、全員が20代で死亡しています。2人が病死で、それ以外の方は皆さん不自然な事故死です。

 あまり車も通っていないのに交通事故にあったり、普通の人だったら9月に海水浴をするはずがないのに海水浴に行って溺れたとか、有本さんのケースは、暖房用の石炭ガスの中毒で一家が全員死亡というように不自然な事故死が非常に多く、これではとても納得できないので、いろいろな矛盾点、疑問点を表にして、北朝鮮側に対してできたものからでいいから回答してくれと言って渡したのですが、北朝鮮からの回答は全然来ていません。

 生存の5人は10月15日に帰国しました。その時の新聞を見てみると、二週間ぐらい日本に滞在して親族を訪問したり墓参りをしたりして、その後北朝鮮に戻って子供たちと相談して日本に行くかどうか決めるというように言われていました。それは北朝鮮側はそういう約束があったと言いますし、日本側はそういう約束はないと言っていますのでどっちが本当なのかわかりませんが、少なくとも文書による約束はないと思います。そんなものがあれば北朝鮮は出してきますので。

 このまま返してしまったら、北朝鮮側はテレビの前か何かで「私たちは幸せな生活をしています。子供たちも日本語が話せませんので北朝鮮に残ります」というようなことを言わされてしまう恐れがあったわけです。それも家族が反対したとか本人が帰りたくないと言っているという形にしておくと、残っている子供たちが危害を加えられる恐れがあるので、政府の責任で留め置くという形になったわけです。

 しかし北朝鮮側は、日本側が約束を破ったとして、子供たちはずーっと日本に帰ることができなかったのですけれども、小泉首相が平成16年に二度目の訪朝をされて、その時に蓮池さん、地村さんの家族5人を連れて帰ったわけです。曽我さんの家族はジェンキンスさんの説得がうまくいかなくてちょっと遅れたのですが、全員帰ってくることができました。

 しかし、死亡と言われた人については現在も何も変わっていません。北朝鮮側は生きている人はみな返したのだから拉致問題はこれで終わりだと言っているわけです。しかし小泉首相は、そんなことでは自分も日本国民も納得できないから再調査しろということを要求したわけです。それで再調査を約束したのですが、特に期限も設けていなかったので進捗せず、平成16年8月になってやっと北朝鮮側は調査委員会をつくったということでした。

 日本では言えば警察と市役所に当るようなところで、住民票などを調べるということで約20人のメンバーで調査団をつくったということがわかりました。9月に開かれたときに、めぐみについて若干の修正がありました。それは蓮池さんや地村さんが、めぐみと同じところに住んでいて、94年まで一緒だったということを証言して下さったのが新聞に載ったのを北朝鮮側は、めぐみを93年死亡としたのは誤りで勘違いだった、94年4月に死亡した、というように訂正してきました。

 2回目までは北京で開いていたものですから何か質問したら、帰って調査委員会に聞きますからというようなことを言うので、3回目は平壌で開かれました。そのときにめぐみの写真とか学生証、自筆のメモ、カルテのコピー等たくさん持ってきましたのですが、何といっても決定的なのは、めぐみの遺骨をキム・チョルジュンさんというめぐみの夫が持ってきたことです。そして規則を破って遺体を持ち帰って火葬にし、そして壷に入れて事務所に保管していたということなのです。本当であれば自分が両親に直接手渡したいけれどもと言ったけれども、日本側団長の薮中三十二さんが、私が家族から委任を受けているからといって受け取ってきて下さったわけです。

 それをもらったとき、あまり実感は沸かなかったのですが、それはめぐみのものだということでいったん受け取りました。警察庁の方も一緒に行っておられたので、それは骨であるということは検分してありました。高温で焼いたらしいのでかなり白く、触るとDNAがつくので触っていないのですが、骨であるということは確認したそうです。

 それを新潟県警が裁判所の令状を取って証拠品として押収して、帝京大学と科学警察研究所でDNA鑑定をしたわけです。しかし五つの骨片の中の四つから同一人のDNAが、もう一つからはまた別人のDNAが出たのですが、いずれもめぐみのものではないということが判明しました。

 その結果が出たのが平成16年12月8日です。それに対して私たちは、こんな不誠実なことをするのなら経済制裁を、という声明を出しました。9日に拉致議連の総会で外務省が説明したところ、やはり経済制裁を、という決議がなされました。その決議の中では、おそらく国会議員では初めてだと思いますけれども、解決のためには金正日政権を倒さなければだめだということが織り込まれたことは画期的なことだと思います。それから自民党の拉致対策本部とか10日の衆参の拉致問題特別委員会でも、経済制裁を、という決議がなされています。しかし小泉首相は、対話の窓口が途絶えるということで制裁には踏み切りませんでした。

 その後も、他の方の分も精査をして、12月24日に細田官房長官が記者会見をして、「北朝鮮側から得た情報及び物証からは『八名は死亡、二名は未入境』との北朝鮮側説明を裏付けるものは皆無である」とした上で、「北朝鮮が速やかに誠意ある対応をしなければ日本としては厳しい対応をとらざるを得ない」と言って、制裁の予告のような談話を発表し、翌25日に北朝鮮側に鑑定内容などを添えで抗議したわけです。それに対して北朝鮮側は何も応えず、鑑定は捏造だから骨を返せというようなことだけで何の対応もしていません。

 それからずーっと交渉が途絶えていましたが、平成18年2月に日朝並行協議が開かれました。それは拉致だけなく核とか補償問題のことも並行して話し合うものです。しかし補償問題が仮に先に進んだとしても拉致の問題が解決しなければ補償だけを先にするということはあり得ないということは日本政府の方針ですし、北朝鮮にもそのことを伝えてあります。しかしそのときも具体的な進展は何もありませんでした。それから次回いつ開くかということについても約束されていません。

 そのとき拉致問題の交渉に当った外務省の梅田邦夫参事官から感想を聞きました。三点ありました。一つは、北朝鮮側は日本の世論を非常に気にしているということです。たとえば北朝鮮側が記者会見をするということは金正日にその結果が分かるわけですけど、それには日本の記者の質問が少なかったのは関心が薄れたのではないかとか、その協議の直前に新潟のデパートで開かれためぐみの写真展に二千人の人しか来なかったそうですね、ということを言ったそうです。梅田参事官は、私も見に行ったけれども超満員だった、誰がそんないい加減なことを報告するのか知らないけれど実際は二万五千人の人が来てくれたと言って、そのときもらったリーフレットを渡したそうです。そんな写真展の人数までチェックしているということのようです。

 きょうのような集会の人数も気にしていると思います。以前、地村さんの地元の小浜で集会を開いたときは、向こうの新聞で、ありもしない拉致のことで小浜で集会を開くのはけしからんというようなことが出るぐらいです。日本で拉致問題をどのように思っているかということを非情に気にしているようです。

 二番目には、拉致問題の国際化を非情に嫌がっているようです。以前は拉致と言えば、解決済みのレバノンと韓国の他は日本しか分からなかったわけですが、ジェンキンスさんが本を書いたことをきっかけに、今日も出席していただいているタイにも拉致被害者がいるとか、中国の人もいるというようにいろいろな国に出てきています。現在は東南アジア、ヨーロッパ等12か国から拉致がなされているということが分かって、サミットの席上とかアセアンの会議でも拉致のことが追及されるのが北朝鮮は非常に困っているということです。

 第三にアメリカの金融制裁が非常に効いているようだとおっしゃっていました。しかし今はもうアメリカだけでなくもミサイルの発射の時に万景峰号を止めたりしていますし、さらに核実験の後は国連決議に先立って日本が経済制裁をしていますから、ますますこれは強まってきていると思います。

 国際会議が開かれ、アメリカ、韓国、タイから被害者家族の方、支援者の方がお見えになっていますけれども、どうすれば拉致問題を解決できるのかということを出し合ったのですが、いろいろな意見の中でも、救う会佐藤勝巳会長は、一人か二人を出してきて解決ということはない。解決するには全員一括して出してくるよりない。そのためには金正日体制の崩壊がなければなかなか難しいのではないかということをおっしゃっていました。

 当初は政府認定者ではなかった曽我さんを返したということは、北朝鮮側はこれで終わりにするために返してきたのでしょうが、日本側はそれならもっといるはずだという形で逆に北朝鮮に対する非難が強まりましたから、ここでもし一人か二人、死んだといっている人を勘違いで生きていましたといって出してきたら、やっぱり死んだというのは嘘だったのか、他の死んだといっている人も必ず生きているはずだということになって収まりがつかなくなると思います。ですから、解決は一挙にということでなければならないと思います。

 拉致の解決とは何かというと、昔は落としどころがあるというか、どこかまで行ったらそこでいったん終わりにして後は国交正常化してからまた探せばいいというようなことを考えた時代もあったようです。けれども、認定された人17人のうち5人が帰ってきていますから残りが帰ってきたら終わりということではない。拉致された可能性が濃厚な特定失踪者がいるということ、さらに日本人だけでなく、国際会議にお見えになっているタイ、韓国の拉致被害者もすべてが解決されなければ拉致の解決とは言えないと、安倍さんはよくおっしゃっています。

 そのためには政府に動いていただく他ないのですが、今ずいぶん高まっている国内世論が持続していかなければ難しいと思います。大勢の被害者を解放するためには、今日のように関心の高い皆様方が、この関心を持続して下さいますことが最大の力となりますので、そんなに長い時間はかからないと思いますが、拉致問題の解決まで関心を持って見守って下さいますようお願いします。




  
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