朝鮮戦争(6・25)北朝鮮の拉北者(被拉致者)の人権
朝鮮戦争の北朝鮮拉北者の実態と送還努力

1.朝鮮戦争拉北者の悲劇

2.戦争拉致の実状と規模

3.解決法案および課題

朝鮮戦争(6・25)北朝鮮の拉北者(被拉致者)の人権
朝鮮戦争の北朝鮮拉北者の実態と送還努力

※この論文は、2005年12月、韓国で行なわれたフリーダムハウス主催の集会に寄せられたものです。

李美一(イ・ミイル)/(社)朝鮮戦争拉北者人士家族協議会理事長

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2.戦争拉致の実状と規模

 拉北者とは、本人の意思に反して北朝鮮政府に連れ去られた後死亡したり、北朝鮮当局により抑留されたまま生存している人々のことをいう。韓国には戦争中に拉北された戦争拉北者と休戦後拉北された戦争後拉北者の2つの類型がある。ここでは朝鮮戦争時に拉北された戦争拉北者を取り上げる。

 1945年光復後38度線を境界に北朝鮮には、社会主義体制が構築され、韓国には民主主義体制が樹立された。北朝鮮からの強制的社会主義化に畏怖を感じたり、反対した知識人らと指導層人士ら、生命に対する恐怖を感ずる宗教人ら数100万人が韓国に大挙避難してきた。その結果、北朝鮮は人材空白状態になり金日成政権は国家建設に必要な各界指導級人士らの必要性が切迫し、「韓国から知識人らを連れてくることについて」(1946年7月31日、金日成全集4巻)という名の下に指示した。

 北朝鮮が韓国の有名政治家と公務員、知識層の人士ら、青年らを拉致していた理由は2つあったように思われる。まず対南戦線など必要なところに投入するためであり、もう一つは韓国の指導層と愛国人士らの枯渇により社会的混乱を惹起し、人材不足により戦後の復興を困難にさせるという計算のためであった。
 戦争挑発前、北朝鮮は多少混乱していた韓国の状況を利用し、韓国の主な人士らに接近、懐柔するが、あまり効果がなかった。しかし戦争が起き、北朝鮮は懐柔ではなく強制力を動員し、北送作業を始めた。戦争中、韓国を占領した状況ですでに作成した名簿を元に韓国の左翼らの積極的な協力を得、計画的で組織的に多数の知識層らを探し出し拉致、北送した。

 その間、家族らの証言のみで確認された拉北状況は、当時米国国務部秘密文書に詳しく記録されていた。9.28のソウル修復直後である1950年10月に在韓米国大使館から本国に報告した文書がそれである。文書は「ソウルから10,000人ないし20,000人の政治犯らが西大門刑務所と麻浦刑務所に収監されていて9月17日から28日の間にいなくなった」と記録されている。またこの文書は拉北される様子を具体的に描写しているが、5人ずつまとめて縛り上げ、それを大きな隊列として縛り、清涼里を経て、議政府まで歩いて北送されたと記録している。この資料には拉北される人達の名前も幾人か言及されていて、脱出者の証言も記録されている。

 北朝鮮の拉致は指導級人士に限定されたものではなかった。戦局が不利になると戦後再建と不足した軍兵の人数を補うため、技術者および若い青少年らを選別して拉致した後、前線に投入したり北送したりした。2001年2月21日、中央日報は戦争中ソウルに住んでいた住民50万を北送したという資料がロシアの機密文書中に発見されたと報道した。また<北朝鮮関係資料集>16巻「講院内3440号」によると、「ソウル市民達を北に転出させたとき、不純分子が加わることのないように注意しろ」という指示と「労働力がない家族らは転出対象者から除外しろ」という指示が含まれている。北朝鮮は多数の韓国人達を連れて行こうと計画し、その計画を実行に移したのである。

 北朝鮮は朝鮮戦争が起こり、わずか3日間だけで首都ソウルを占領した。まだ避難することができないソウル市民達のうち、成人男子達は身を隠した。しかしソウルが3ヶ月の間北朝鮮軍の占領下にあったために、多くの人々が逮捕連行されなければならなかった。拉北対象者達は大部分が家族または親戚や近所らが見ている中、強制的に北朝鮮の軍官により連行されていった。拉北方法は身分に応じて異なっていた。公務員や指導級人士、反共団体構成員らは一般的に内務省で調査を受けた後、北朝鮮政治保衛部に移送、拘禁段階を経て、拉北された。一般民間人達は公共の場所に軟禁されてただちに拉北された。

 第1次拉北は大韓民国内政関係要人と各階各層指導級人士達が対象であった。政関係要人達はいわゆる「推戴作戦」により1950年7月、旧把撥(クパバル)方面を経て車両で強制拉北された。各階各層の指導級人士達は、北朝鮮において作成された名簿にしたがって、大々的に逮捕された。主として公務員、医療関係者、法曹関係者、文化芸術関係者、博士、言論関係者、実業家、宗教関係者などが対象となった。

 連合軍の占領で戦局が不利になった8月中旬には、第2次拉北が引き続いて行われた。そのときまで、西大門刑務所などに拘禁されたままになっていた一般民間人(知識人達および北朝鮮側がいう不純反動分子を含む)達を大規模に拉致するようになった。9月28日にソウルが修復される前まで、各所で拉北は続けられた。

 ソウルの場合、一般的な拉致経路は西大門刑務所から清涼里までは、電車で通行禁止時間である夜間に移送し、清涼里汽車駅に爆撃が加えられ元山に行く汽車の運行が不可能になると徒歩で議政府を経て北へ連れて行ったり、敦岩洞を経てミヤリ峠を越えて連れて行った。拉北方式は縄で縛った後、また隣の人と後ろの人を縄で縛り闘争できないようにし、両方から騎馬兵と人民軍が監視をし、頭を下に向けて歩くように強要し、話は一切できないようにして昼には休み、夜は歩くという苦難の行軍そのものであった。拉北の道で歩けない多くの人達は殺され、食べ物といえば一日に小麦一握りで、水はくれなかったという。
当時、韓国政府は民間人の拉致を重大な国家的人的被害として認識し、戦争中である1950年12月の1日に広報所統計局で急ぎ6.25事変<ソウル特別市被害者名簿>を作成した。拉致2,438人を含め、被殺者、行方不明者などすべて4,616人の名簿を最初の記録として残した。戦争が終わるころである1952年には、韓国政府が全国的に調査し<6.25事変被拉致者名簿>を作成した。この名簿には、拉致被害者82,959人の人的事項が姓名、性別、年齢、職業、所属および肩書き、拉致日付、拉致場所、住所順に記載されている。全国で拉致された人員を地域別性別で分けると、表1の通りである。

<表1>年度別全国拉致被害現況

道\年度 1952年 1953年
総計 82,959 84,532
全国 男(計81,369) 女(計1,590) 男(計78,377) 女(計6,155)
ソウル 19,982 535 19,003 1,735
京畿道 15,870 88 15,491 566
忠清北道 6,155 13 5,979 333
忠清南道 9,624 331 9,995 27
全羅北道 6,592 421 6,220 990
全羅南道 3,506 49 3,104 1,067
慶尚北道 7,396 90 7,196 388
慶尚南道 1,807 8 1,641 200
江原道 10,404 25 9,721 807
済州島 15 30 27 42

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