■ 田中実さんについて


1.田中実さんに関する基礎資料

2.救出活動の経緯

3.問題点

■田中 実さんについて

救う会・兵庫 長瀬 猛

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2.救出活動の経緯

  • 張龍雲氏との出会い
    平成12年(2000)年秋、神戸市内において、ある団体の設立記念式典が開催され、記念講演の講師として張龍雲氏が登壇された。私たちにも理解を示してくれていたこの主催団体は、同年3月に家族会と救う会が実施した「50万トン米支援反対抗議行動」所謂「座り込み」に関する報告の場を提供してくれた。
    張氏とはこの催しの楽屋で初対面の挨拶を交わした。すでに持病の糖尿病がかなり進行していると語り、もっと早く皆さんに会っておけば良かったと言って、手を握って頂いた。車椅子から降りるときも奥様の介添えを必要とする程、その病状は相当なものだった。いつでも分からないことがあれば尋ねなさいと言って差し出された名刺を受け取ったが、この約半年後、張氏は帰らぬ人となった。
    この日の講演内容は、前年出版の「朝鮮総連工作員」に関する内容であり、特に田中実さんのくだりについて詳しく言及されていた。
    これ以降、県下で実施する街頭署名活動においては、有本恵子さんと一緒に田中実さんの名も連呼するよう努めた。しかし、田中実さんに関する世論の関心は極めて低く、また張氏の告白を補完するような新たな証言や証拠も得られずに、時の経過を許す日々がつづいた。

  • 田中実さんの写真公開
    平成14年(2002)は、3月には八尾めぐみ氏が有本さん拉致を証言、9月には小泉首相が電撃訪朝、何ともドラスティックに変動した感があるが、その陰で田中実さんに関して重大な事実が発見された。
    田中さんと同い年の岡田和典氏が同じ学区(中学校)だったことが判明、彼は中学校から私学に進学したが、多くの同窓生は田中さんと同じ鷹匠中学校へ入学しており、ここで田中さんと同窓になったのである。「灯台下暗し」とはまさにこの事である。
    岡田氏が早速同窓生に呼び掛けたところ、あどけなさの残る中学生時代の田中さんの写真がもたらされた。これが声明と共に公開された1号写真だった。
    9月16日の「総理訪朝緊急国民大集会」開催直前、日比谷公会堂の楽屋で開催された幹事会は、異様なまでの緊張感につつまれていた、訪朝直前に家族との面会を拒む小泉首相に、語気を荒げる人々も少なくなかった。その最中1号写真の掲載されたチラシは披露された。
    しかし、事態はこれで終わらなかった。小泉首相が機上の人となり、私たちも帰路についた同日、また新たな証拠がもたらされたのである。
    何と高校時代の卒業アルバムがもたらされたのである。そこには、1号写真からは窺い知ることのできない、生き生きとした男子としての田中さんが収められており、その豊かな表情は私たちの認識を一辺させた。「田中さんは生きている!」
    帰国した小泉首相が、「5名生存10名死亡」と家族に告げたその夜、私たちは憤りに打ち震えながらも「このままでは田中さんは見捨てられる」と異口同音に思った。
    9月22日、緊急報告会として有本さんにご登壇いただいた後、この2号写真(数種類)をマスコミに公開した。この2号写真は衝撃をもって受け入れられたらしく、各紙に田中さんが大きく取り上げられた。さらに情報は寄せられ続けたのである。

  • 恩師渡辺友夫先生
    田中さんが在学していた頃の神戸工業高校の技術課程は、1年生から卒業までの3年間クラス替えが無かったそうである。それ故に彼のことを覚えている人々も多い。ただ卒業から40年近く経って、夫々の人生を歩んでいる同窓生たちが名乗り出るのは、やはり困難な事であり、私たちもそれは覚悟していた。しかし、そんな事はものともせずに立ち上がった人がいる。3年間担任教師であった渡辺友夫先生である。
    学校OBに知己のある知人を介して、「親代わりに」という申し出を受け、早速お宅へ赴いた。
    ご高齢には違いないが、かくしゃくとされた方である。挨拶もそこそこに田中さんの思い出を語られた。「彼は施設から通っていたので、常に気にかけていました。当時の同級生には同じ境遇の者は居なかったので、心配したのですが、屈託のない笑顔をする奴でした。しかし、弁当が(施設で提供される)小さくて粗末だったので、職員室へ呼んでおかずを分けてやったりしました・・・」ひとしきり語り終えた先生の目は、涙で一杯だった。
    以後先生には、あらゆる場所へお運び頂き、田中さん救出を訴えていただいた。そしてついには、青森県八戸市内で隠遁生活を送る韓竜大を訪れて、彼に直接会った。
    同行した雑誌記者によれば、へらへらとはぐらかす韓に対し、掴みかからんばかりの勢いであったそうである。(別紙参照FRYDAY平成15年4月25日号)

  • 韓竜大告発へ
    小泉首相の訪朝後の11月、日朝国交正常化実務者会談が開かれ、日本側が複数の拉致被害者を照会した。何かの集会に参加していた平沢勝栄衆議に会った折、田中さんはどうなったのですか?と尋ねたところ、そのリストの最前列で照会してあるそうである。しかし、拉致認定される様子は全く感じられなかった。
    この期に及んで未だ消極的な国に対し、もっと強力に訴えるものは無いか、策を巡らして辿り着いたのが「告発」だった。
    「相手を訴える法律知識(自由国民社)」を参考にして書面を整えるという、まことに稚拙なものではあったが、可能な限りの証拠集めに奔走した。
    田中さんが育った施設関係者の証言、張龍雲氏が「拉致工作」を告白した横田夫妻へ宛てた手紙、そして渡辺先生の証言。しかし事件性を窺わせるものがなく、途方に暮れたが、同郷の岡田氏が執拗な調査を続けて、ついに決定的な証言を得た。それは、田中実さんと同じ施設で育った後輩の、金田龍光さんを一時期雇っていた雇用主の関係者によるものである。証言者と金田さん及び周辺関係者は、田中さんの働いていた中華料理店「来大」へ頻繁に出入りしており、金田さんは金ちゃんと呼ばれ親しまれていた。田中さんが姿を消してから後、オーストリアからの国際郵便が金田さんへ届けられた。差出人は田中さん。内容は「オーストリアは良いところだから、君もこっちへ来ないか」という誘いだった。金田さんは筆跡に疑いをもち、この証言者にそれを打ち明けていた。しかし、この誘いを受け入れてしまった金田さんは、渡欧準備のために上京することになり、何とこの「来大」で送別会が開かれたそうである。
    上京した金田さんは音信不通となり、約半年後に証言者の近親者が「来大」の韓を詰問したが、韓は「しらない、分からない」という要領を得ぬ返事に終始した。
    以上の内容を、国外移送目的略取等(刑法226条)を罪名及び罰条とする、告発状に添付して、平成14年(2002)10月4日、兵庫県警に提出した。受理はくしくも10月15日、拉致被害者5名の帰国の日だった。

  • 張龍雲氏の置きみやげ
    田中さんに関る原点は、それは言うまでも無く張龍雲氏の告白であり、その著書「朝鮮総連工作員」である。しかし刊行物に著わされたものに、犯罪を立証するだけの証拠価値があるのか否か、その疑念は当初から私たちの心を煩わした。
    張氏の死去から2年近く経っていたが、そういえば「分からないことがあれば、いつでも尋ねなさい」と言われて受け取った名刺があったことを思い出し。思い切って訪ねてみることにした。
    以下は情報提供にあたり秘匿を約束したため、実名は差し控えるが、その関係者は私の申し入れを快く承諾くださり、張氏が遺した膨大な量の日記を貸して頂いた。
    中には大乗寺事件や十文字山事件といった、関西在日社会でおきた経済事件(詐欺)に関る記述も多いが、中でも特筆すべき資料を発見することができた。
    それは、平成9年(1997)1月に山形県下で起こった、張氏と曹の民事紛争に関る告訴状の写しである。内容は「洛東江」という組織名を挙げて、曹が非合法組織の幹部であり、その活動の一貫として資金を集めているというものである。
    ということは、曹は平成8年から9年にかけて、月刊誌・単行本による表現と、利害の対立する法廷における一方的な表現により、著しく名誉を傷つけられている訳で、当然のことながら対抗処置としての、誣告罪や名誉毀損による告訴を行うべきところを何もやっていないのである。
    しかも、当該民事紛争は結果的には曹に軍配が上がっているにも関らずである。
    張氏の日記は、私たちが曹を告発するために大いなる置みやげとなった。私たちは準備に着手した。

  • 曹廷洛告発へ
    曹は事件を主導したと考えられるだけに、何としてもそれを裏付ける新たな証拠を入手しなければならない。しかしもはやそれは、民間人の領域を踏み越えており不可能に思えた。
    「何故反論しないのか?」本人に訊くのが一番ではあるが、山形県から1件の家を探し当てるのは容易ではない。ここでも張氏の日記が活躍して、まず曹が経営する遊技場の所在地が判明し、各地の関係者にもご協力頂き、ついに曹の自宅を突き止めたのである。
    平成15年6月、ある雑誌社から直撃取材同行のオファーを受けた。「この機を逃してなるものか」私と岡田氏の2名は躊躇なくこれを承諾し山形へ飛んだ。(別紙参照FRIDAY6月20日号)
    張り込み3日目、奇跡的に温泉へ出かける曹をキャッチして、直撃取材が成功した。
    当初激しく抵抗したが、すぐに落ち着きを取り戻し着席して私たちの質問に答え始めた。やり取りは1時間以上に及び、概ね以下のような理由から、私たちは告発へ踏み切る決意をした。

    @ 田中さんが拉致されていること自体は否定しない
    A 曹は平成14年に韓国へ渡り、当局へ身の上を告白した。韓竜大は2年前にそれを終えている。
    B 名誉を守るべき手立てを講じない理由は無かった。
    C 肝心な部分は、否認するのではなく、韓竜大に訊けとはぐらかす。
    D 文書による回答を求めた質問状にまともに答えようとしない。
    罪名罰条は前回同様に、平成15年7月22日に提出した。受理は約10日後だった。

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