この論文は、月刊「正論」平成16年8月号掲載から一部訂正し引用したものです。別掲ちらしの「北朝鮮の2つのうそ」等と一覧表「拉致被害者は生きている−北朝鮮による『調査結果の矛盾点』」と併せてご活用下さい。

小泉首相の再訪朝の結果、蓮池さんと地村さんの子どもたちが帰国し、曽我さんの家族についても不透明な部分はあるが、第三国での再会に北朝鮮側が応じた。平成9年以来、拉致被害者救出運動続けてきた私たちにとって、合計10人の被害者と家族を救うことができたことは大きな喜びであり、ご尽力・ご支援くださった多くの皆様に心からの感謝を申し上げるとともに、曽我ひとみさんが念願通り「家族と日本で暮らす」ために、関係機関のより一層の努力を強く求めるものだ。
拉致救出運動は新しい局面に入った。別の言い方をすると、人質とされていた子どもたちを取り戻したことにより、たたかいのターゲットを絞り込みやすくなった。
平成14年9月、金正日が拉致を認め謝罪したが、そこであらたな二つの大きな嘘をついた。第一が「拉致被害者は13人しかいない」、第二が「めぐみさんたち8人は死亡した」だ。いま私たちは、金正日のついているこの二つの大きな嘘を打ち破るために全力でたたかっている。

日本政府は15人を「拉致被害者・家族支援法」にもとづき拉致被害者と認定している。ところが、金正日はその中の2人曽我ミヨシさんと久米裕さんとの拉致をいまに至るまでも認めていない。
曽我ひとみさんのお母さんである曽我ミヨシさん拉致については、曽我ひとみさんが、昨年11月12日ジュネーブの国連人権委員会強制的失踪作業部会に提出した書簡のなかで次のように詳しく拉致された当時の状況を証言している。
1978年8月12日土曜日、19時頃、家を出て私と母は近所のお店に夕食のおかずを買いに2人で出かけました。その日は、ごく普通の日を過ごし2人で出かけた買い物が母と生き別れになってしまうとは知る由もありませんでした。
私の家から、逸見商店までは、まっすぐな一本道で500メートル位離れている場所にあり、歩いて5?6分の距離です。私の家も、お店も国道沿いです。国道沿いには四日町の家並みが続いていますが、その当時は、とても暗く、当時街灯は数少なかったので、大変暗い道でした。灯りと言えば、家並みの中の灯りがぼんやりと照らされる程度でした。最初、家を出て反対側に渡り、海側の歩道を母と一列になって歩いていました。行きも帰りも車の往来は2?3台程度でした。
お店に着いて、お店の中には10分もいなかったと思います。品物を見ながら「あれにしようか、これにしようか?」と決めたりして、お店のおばさんと少し会話をしてお店を後にしました。帰り道も海側を歩きました。帰りは母と二人並んで歩いていました。その日の帰り道に、私と母に挨拶をしたと言う、近所のおばさんの証言がありますが、私には覚えがありません。
私と母は、買い物を終えて、話をしながら家に向かっていました。お店と家のちょうど真ん中辺りを少し過ぎた頃、国道沿いにある農機具整備工場の手前、Nさんのお宅辺りだったと思います。背後に人の気配がして、私が後ろを振り向くと、男の人が3人横並びに私達の後ろをついてくるのが見えました。
私と母は、買い物を終えて、話をしながら家に向かっていました。お店と家のちょうど真ん中辺りを少し過ぎた頃、国道沿いにある農機具整備工場の手前、Nさんのお宅辺りだったと思います。背後に人の気配がして、私が後ろを振り向くと、男の人が3人横並びに私達の後ろをついてくるのが見えました。私と母は、その男達3人を見て「気持ち悪い、怖いね」と話をしながら歩き続けました。その後少しして、私と母が足早に歩き始めた途端、急に後ろから男達3人が、走って来て私と母は、国道沿いの農機具整備工場から14?15メートル先のお宅の敷地内にある、歩道と敷地内の境に140cm位の高さの赤い実のなる木の辺りに引きずり込まれました。
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