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私はすぐに、口をふさがれ、手足を縛られ、袋の中に入れられました。私はちょっとは、抵抗しましたが、男性3人の力と私の力では抵抗出来ず、体をパタパタとさせるくらいしか出来なかったのです。母は襲われるまで横にいたから1緒に襲われたと思いましたが、私はすぐに、袋に入れられ担がれ、その場を去った様なので、母の気配は感じることさえも無理でした。そして、私は1人に担がれ数分運ばれて、小舟らしいものに乗せられ、しばらくして、海へ出た気配を感じました。

 縛られて、袋の中に入れられたまま船の中で出発を待っている時に日本語を話す女性の声がしました。しかし、日本人ではないような気がしました。日本語の話し方が少しおかしいようでした。小さな声で話をしていたので内容は聞き取れませんでした。そして、誰と話をしているかも、その中にいる人数も、わかりませんでした。

 海へ出たあと、もう少し、大きい船に乗り替えました。袋のまま船室の中の一室へ運ばれ初めて袋から出してもらいました。部屋の中からは、一日中出ることもなく、その船の中で人を見たのは、朝と昼、2回の食事を運んできた男性のみ一人だけでした。

 1978年8月13日、17時頃、北朝鮮の清津に到着。(13日17時頃と、時間をはっきりと覚えているのは、拉致されたとき腕時計を身につけていましたので時間は覚えています。)清津について後、招待所に移動しましたが、その責任者に母の行方を聞きましたところ「日本で元気に暮らしているから心配しなくてもいい」と言われました。

 ところが北朝鮮側は曽我ひとみさん、ミヨシさんについて次のようなでたらめな「情報」を日本政府調査団に提供している。
「(曽我ひとみさんは)、1978年8月12日、特殊機関工作員が身分隠しおよび語学教育の目的で現地請負業者(日本人)に依頼し、引き渡しを受けて連れてきた」「母・ミヨシさんについては承知していない。特殊機関工作員が現地請負業者から引き渡しを受けたのは曽我ひとみ1人だけ。」(「拉致問題に関する現地事実調査結果(平成14年9月28日?10月1日)」)

 曽我ミヨシさんはひとみさんと一緒に歩いているところを3人の男に襲われ、その場で袋に入れられ、近くの川においてあった小船に乗せられた。わたしも現場に行ってみたが、ひとみさんとミヨシさんが襲われた場所から、川まで歩いて数分の距離だ。曽我さん母子を襲ったのは、労働党作戦部の戦闘工作員であり、3人は日本人拉致とともに、日本に潜入して工作活動を展開していた女性工作員を連れ帰るという二つの任務を持って佐渡の侵入してきた。上記書簡にはないが、筆者がひとみさんから直接聞いたところによると、小船のところで日本語を話していたのは朝鮮人中年女性で、その女性も工作船にのって清津に戻り、ひとみさんはその女性と清津から平壌まで同じ車に乗って移動したという。

 北朝鮮の工作員が路上で襲ったミヨシさんについて、「承知していない」などという話があるだろうか。これが北朝鮮政府が日本政府に公式に伝えた「情報」なるものであり、まったく信じられないことはいうまでもない。

 もう1人、北朝鮮が拉致を認めない久米裕さんについては、よく知られているように拉致現場付近で実行犯の1人が逮捕されて、自供をしている。1977年9月19日、東京都三鷹市役所で警備員をしていた久米裕さん(当時52歳)は、能登半島の宇出津海岸から北朝鮮に拉致されている。同日、久米さんは宇出津海岸の旅館に在日朝鮮人李某と一緒にチェックインし夕食を取った後、まっ暗な入江となっておる海岸に散歩に行くといって李と出かけ、そのあと行方不明である。その頃、警察は極秘裏に電波傍受により北朝鮮工作船の動向について監視の目を光らせていた。当日、石川県警は北朝鮮工作船が近海まで来ているという連絡を警察庁から受け、不審な上陸者がいないか警戒態勢をとっていたところ、李の動静を不審に思った旅館からの通報で、李が逮捕された。李は取り調べに対して、当初は否認していたが、次のようなきっかけで前面自供する。

 旅館の女将が久米さんと李が夕食時まったく会話がなく、まっ暗な入江に散歩に行くと出かけたのをおかしいと思い、部屋に入って久米さんが残した背広のネームを見て宿帳とは違う「久米」という名前があったことを覚えていた。実は海岸に出るにあたり李は久米さんに用意してきたヤッケのようなものをはおらせたが、はじめは背広の上から着ようとしたが、ごそごそするからと久米さんが背広を残したのだ。1人で部屋にもどった李は、久米さんの背広を点検し、ネームを発見してそれをちぎって焼き捨てた。




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